砂漠の中のエネルギー施設と、夕焼けに染まる瀬戸内海 | 佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

変わらぬ理念の実現を目指し、しくみを修正する。
実態に合わなくなった諸制度を見直し、日本国を良くすることを目指す、政治ブログです。

 若い頃に読んだ、太宰治の新潟での講演を文字に起こした文章の中に、たしか、「瀬戸内の豊穣」のような言葉があったように、記憶している。
(済みません、いい加減な記憶でした。調べてみると、「関西の豊麗、瀬戸内海の明媚」(太宰治『佐渡』)でした。)

 岡山県にある鷲羽山(わしゅうざん)辺りから見る、夕焼けに染まる瀬戸内海は、穏やかである。ひょっとしたら、太宰は、この景色、もしくは、この景色が描かれた絵葉書などを見て、そうしゃべったのかもしれないと思うほど、穏やかである。1990年の末日までは、その鷲羽山の近くを、下津井(しもつい)電鉄の電車が走っていた。

 エネルギー資源を、まるで湯水を消費する様に消費する、大量消費社会。大量消費社会を支えるエネルギー資源は、メキシコ湾の海底や、サハラ砂漠の真ん真ん中でも採掘される原油や天然ガス、それと、ウラン鉱などである。砂漠の真ん真ん中に、ぽつんとあるエネルギー関連施設は、武装したテロリストに攻撃されれば、一溜まりもない。

 そんなことを考えていたら、ふと、太宰の言葉を思い出し、冒頭で触れさせていただいた。建国してから、まだ、日が浅い米国は例外だが、先進国と呼ばれている国は、大抵、伝統と歴史がある国である。
米国の社会がそうであったように、いわゆるモータリゼイションを後押しし、結果として、鉄道網を衰退させ、自動車を普及させたが、それで、社会は、住み良くなったか。心にゆとりを持って、生活できるようになったか。

 米国型の大量消費社会は、安心して、子を産み育て死んでいくことができる、成熟した社会だろうか。現実という制約のなかで、どうバランスを取り、調和を図るか。結局、国民おひとりおひとりが考えなければ、いつまで経っても、誰かが考えた戦略に乗せられるだけの国のままであるように、思います。


神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則