不易流行という、ごくありふれた言葉を借用して、この政治ブログの表題にしている。デカルトやカントまでさかのぼって、近代合理主義や、近代国家や、近代における社会の有り様を、考え直そうという訳ではない。
文献を漁って、小難しいことを考えあぐねるのではなく、40年余り、この国において、この国の国民として生活してきて、「おかしいな、変だな。このまま、これを続けていったら、早晩、危難を招くことになるのではないか。人としての道を、踏み外していないか。義に背いていないか」、そう思ってきたことを、少しずつ書いていき、どこをどう修正していくべきなのか、拙い私見を述べさせていただくために、このブログ続けている。
便利であることを、どこまでも追求することは、果たして、常に人を幸せにするのか。昔は、私も、「常に人を幸せにしてくれるだろう」と、思っていたときがあった。学生時代に、大阪で独り暮らしを始めた当初は、電話もテレビも洗濯機も無かった。最初の夏は、冷蔵庫も無かった。当時は、旧大店法により、大型スーパーは、一定以上の日数の店休日を設けることが義務付けられており、火曜日や水曜日が、休みの店舗が多かった。営業時間も、今より短く、夕方の6時半には、閉まっていた。冷蔵庫を持たない独り者には、つらい状況だった。
が、今、振り返ってみて、人は慣れる動物であり、適応力があれば、たいていの状況に適応していくし、適応力がなければ、たいていの状況に適応できないと、思う。「多機能の携帯電話が無いから、もしくは、高級車が無いから、もしくは、高級な鞄が無いから、私は不幸なんだ」と思う人は、それらが手に入っても、その不幸感から抜け出せないと、私は思う。
常に変わりゆくこの世において、「これさえあれば幸せになれる」などという物は、無い。
「これさえあれば」などと思えば思うほど、適応力を失っていく。
神奈川県にて
佐藤 政則