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chick3791 日常あれこれの発信

早や7月。
野菜・・ドイツ豆がよく実りました。大きくて、柔らかくて、おいしい。
果実・・桃が大きく実った。初めて沢山実った。何百個あるかな?
早速鳥がつつきに来るので、網掛けが大変。

1914年、第一次世界大戦が勃発する。アインシュタイン博士はこの頃平和行動に熱心に取り組み、『ヨーロッパ人への宣言』を記している。
1915年、ロマン・ロランと意気投合し、命がけで平和運動をしている人々を手助けする方法について話し合っている。
1916年、一般相対性理論を発表。この理論には星の重力により光が曲げられるという予言も含まれていた(これは後に実証される)。
1917年、肝臓病や黄疸といったいくつかの病がアインシュタインを襲う。病院は大戦で怪我をした兵士で一杯になっており一般人は入院できず、自宅で療養となる。この数年間、いとこのエルザ・レーベンタールが看病にあたる。

以下の写真は全て、第1次大戦が勃発した1914年のものである。

 

              

発端のサラエボ事件発生     西部戦線

 

 東部戦線


        
英国の参戦     タンネンベルクの戦い  末期に日本の参戦

                            (青島攻略戦)

 

1918年、一般相対性理論の立証のため、クリミア半島でアメリカ人ウィリアム・キャンベルに依頼し、皆既日食の観測を試みるも、曇天のめに失敗する。また、第一次世界大戦開戦でドイツのスパイと誤認され捕虜となる。
1919年、皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられること(いわゆる、重力レンズ効果)がケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの観測により確認されたが理論の立証にはまだ不充分であった。しかし、このことにより一般相対性理論は物理学理論としての一定の地位を得る。この事は世界のマスコミにも取り上げられ、敵国人アインシュタインの名がアメリカで初報道され、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となった。
また、彼がユダヤ人であるとの理由から、自国のドイツ国内における彼と相対性理論に対する風当たりは増々強くなった。
なお、この年の2月に親友のフリッツ・ハーバーの仲裁も空しくミレーバと離婚し、6月にはエルザと再婚している。

 

1905年、何度も繰り返すが、この年は「奇跡の年」として知られている。アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」等に関連する五個の重要な論文を立て続けに発表した。当初は周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

 

1906年、Einstein博士は特許局にて2級技術専門職へ昇進し、年俸も4,500スイス・フランへと昇給された。

 

1907年、有名な式E=mc²を発表した年でもあり。博士は学究としての人生のスタートを切った。

 

 

 

この年には、箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができないという、後の一般相対論の基礎となるアイデア(等価原理)を考案する。博士はこれを、生涯最良の名案であると述べている。

 

1908年、アインシュタインの相対性理論が評判になりつつあった当時のドイツにおける数学研究の中心は、ゲッティンゲン大学であった。チューリッヒの工芸学校からこのゲッティンゲン大学へ移っていたミンコフスキーは、アインシュタインの相対性理論の数学的定式化を、四次元の幾何学を用いて見事に成し遂げた。アインシュタインは、それを大して気にしてはいなかった。

 

1909年、特許局に辞表を提出。チューリッヒ大学の助教授となる。この年には彼の生涯で初となる名誉博士号をジュネーヴ大学より授与されている。

1910年、プラハ大学の教授となる。次男エドゥアルト誕生。

1911年、ソルベー会議に招待された。同年プランクにより、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長に推薦された。

 

1911年のソルベー会議でのアインシュタイン

 

1912年、母校、チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任

1913年、プロイセン科学アカデミーの会員となる。アインシュタインはベルリンに移住することになるが、彼とは不仲の状態にあったミレーバは子供を連れて再びチューリッヒに戻ってしまい、別居状態となる。

 

 

連載も約1年間継続中、最近は近辺でいろいろと事件がありました。疲れたので一寸relaxしてみましょう。

 

1968年に発行された旧5 Israeli lira紙幣に、博士の肖像画が使用されています。
この紙幣に、一度実際に触ってみたいですね。

 

 

注・・イスラエル・リラは1958年~1980年にわたり使用されていましたが、その後、通貨単位がshekel(シェケル)に変わりました。その後の急激な物価高騰によるinflationのために、1985年にdenominationが実施され、現在の通貨単位「新shekel」になっていようです。

 

でも、あのEinstein博士にして、何故こんなに小額紙幣なのか?・・・
日本の福沢諭吉の1万円札と比較してみて下さい。余りにも世界的な知名度に反比例していませんか? 

 


世界の人々のEinstein博士に対する畏敬を、Israel国家はどのように考えているのかなー・・・?

 

余りにも希少な少額紙幣の逸品は、現在net販売で約2,800円のようです。余りにも少額で手に入るなんて、素敵ですね。

 

賢人のたむろするIsraelには、一度行ってみたいところではあります。車の自動運転system softなんかも開発されているそうですね。

 



特殊相対性理論がたちまちのうちに討論・研究のトピックになったのは、量子論の創始者であり、Nobel LaureateでもあるBerlinのHumboldt大学教授 プランクが最初に大きな関心を寄せたことにあった。

 Prof. Dr. Max Karl Ernst Ludwig Planck

プランクは自らの科学的自叙伝の中で、アインシュタインの理論にきわめて強く引きつけられた理由を次のように述べている。

「この理論の魅力は、その基本定理から帰結される絶対的かつ不変な推論を、自分で努力して全てを導き出したという驚くべき事実である。量子論で扱う量子のように『光』を扱い、その速度が相対性理論の絶対的なkey pointである。」

このように、このアインシュタインの発表した特殊相対性理論は、プランク自身が科学探求上で目標とし、求めていた「絶対性の探求」という点に関して、 全く斬新且つ華麗なる理論そのものであった。

 



1905~6年の冬学期の間に、プランクはベルリンの物理セッションで、絶対性を追求したアインシュタインの理論を紹介し続けた。彼の助手フォン・ラウエも相対論への初期の支持者となった。

 

アインシュタインの相対論に関する最初の博士論文は、プランクの指導のもとに完成した。

 


 

「特殊」相対性理論というのは、後に「一般相対性理論」が提出されてから区別するためである。

 なお,アインシュタイン自身は、1915年の一般相対性理論構築までの間は、「理論」とは呼ばず「原理」と呼んだ。

 

 

妹マヤ・アインシュタインによると、6月に発表された論文が「物理学年報」に受理された直後の兄の気持ちをあざやかに描写している。


「著名な雑誌へのその論文発表はすぐに注目を集めるだろう」と、その若い科学者(アインシュタイン)は思った。あまりにも突飛な内容であったため、彼は鋭い反対と厳しい批判を覚悟していたのです。


しかし、結果として、彼はひどく失望した。彼の論文の発表後には冷たい沈黙が続いたのです。同誌の次の数号は、彼の論文のことに全く触れず、忘れられたかのようであった。

つまり、これまでの物理学の理論体系を覆し、もっと大きな枠でとらえる、あまりにも突飛な内容であったので、専門家の諸先輩方が静観的態度をとったのである。


 Humboldt-Universität zu Berlin

 

論文の刊行後暫くして、アルバート・アインシュタインはベルリンから一通の手紙を受け取った。それは当時最大の物理学者であるフンボルト・ベルリン大学教授マックス・プランクから送られたものであった。それは、プランク教授にとって不明確な、いくつかの点を明確にすることを求めたものであった。


長い間待った後、これは、彼の論文がともかくも読まれていたという最初のしるしであった。

 

彼の活動を認めた報せが、それも当時の超有名物理学者の一人から届いたことは、若い科学者にとっては、この上ない喜びであっただろう。

 

1905年6月、「特殊相対性理論」を発表した4ヶ月後、追加の短い論文が発表された。そこには、あの最も有名な、単純で美しい公式 「E=m・C2」 が登場する。(このblogでは、べき乗の上付き機能が表示できない)

 

 Dr.Einstein の直筆の書

 

あらゆる物体がその質量に応じて平等に分配され、秘蔵されている莫大な量のエネルギー量が、「質量」×「光の速度」の二乗という、途方もない数字になることが明らかにされたのだ。

 

わずか1gの物質にも、莫大なエネルギーが秘められている。しかし殆どの物質ではそのエネルギーは放出されず、黙秘のままでまったく観測されない。丁度お金を決して使わない大金持ちのようなものである。どれほど貯め込んでいるか、誰にも分からない。

 

特許局に勤務し、余暇に物理を研究する26才の若者が、宇宙全体を支配する掟の認識を、完全に変えてしまったのだ。

 

アインシュタインの回想

「なぜ私に、それができたのでしょう。普通の大人は決して立ち止まって『時間』や『空間』について考えたりはしない。子供だけが、そういうことをします。私の秘密は、子供のままでいたことです。私は、単純きわまりない質問を続けてきました。そして今も、問いかけています。」

Seniors, be childish !! ・・・ japanese Englishに注意、  対比・・・ Boys, be ambitious !!

 

当時の世界は、アインシュタインのこの驚くべき発見の意味に、全く気付いていないかのようだった、と言われています。

暫く経ってから、というよりも、それから半世紀も過ぎた私の中高生の頃、「その理論を理解できる人は世界にxx人だけしかいないらしい・・・」 なんて、誰かがいっているのを屡々聞きました。皆さんの体験では如何でしょうか??

 

 

1905年(アインシュタイン26才)、 この年はアインシュタインにとって 「奇跡の年(miracle year)」 と呼ばれている。


この年彼は 「光」の粒子としての性質から得られた 「光量子仮説」、 原子の存在を探求して得られた 「ブラウン運動の理論」、 そして 「特殊相対性理論」を完成させた。

 

アブラハム・パイス(ユダヤ系オランダ人、1947年渡米し、アインシュタインのいるプリンストン高等研究所の所員となる)は、次のように語っている。

Abraham Pais : アインシュタインの全著作の足跡をたどり、発展させた。

 

「1905年のアインシュタインのように、あれほど短い期間に物理学の領域を拡げた人は、未だ嘗て誰もいない。」

 

アインシュタインの回想 : 「16才のとき、初めてそのイメージが浮かびました。『光』に乗ったら、いったいどんなふうになるのだろうか。16才の私に答えは見つかりませんでしたが、それから10年、同じ問いを続けました。単純な質問こそが最も難しいのです。まあ、私に何か才能があるとすれば、それは 『ラバのような強情さ』 です。」


彼は「光」の性質を理解するために、人生のすべてを費やしたと語っている。


1905年、アインシュタインと妻のミレーバは、幼い息子とともに、スイスのベルンで静かに暮らしていた。

彼は相変わらず、「特殊相対性理論」の発表後も、ベルンの特許局で働いていた。

 

   Bernでの、Einstein一家

 

1905年に彼はすべてを見通したのだ。即ち、時間と空間は独立ではない。

 

信じがたいことだが、車に乗って仕事に行くときは、机に向かっているときよりも、時間はゆっくり進む。速度が上がると長さも縮まる。車が「光」の速度に達したとき、長さはゼロに縮まり、時間は停止する。
つまり、光の速さで宇宙に飛びだすロケットのなかの人は、進むかぎり歳をとらないが、地球にもどろうとすると瞬時に歳をとる。


最初は、ほとんど、ばかげていると思える・・・・・そんなことあり得ない、これはみんなでたらめだ・・・・・と。しかし、よく考えると首尾一貫し、美しく調和し、矛盾のかけらもない。それが「特殊相対性理論」なのだ。


後年、それが重力場まで拡張されて、 これが即ち 「一般相対性理論」 となるのである。

就職のためにあくせくした後、1902年初頭、Einstein はやっとBernで物理学の研究を再開した頃、Milevaは両親のもとで女児Lieserlを出産している(彼女は幼少で亡くなったと推察されている)。

 

リーゼルが生まれた同じ年、アインシュタインは、イタリアの実家に帰った。


父ヘルマンが、病を得て死の床にあったのだ。アインシュタインと父親の関係はとても複雑だった。アインシュタインは、父親の事業が傾きつつある時期に多額の学費を負担させていたことに強い罪悪感を抱いていた。また、アインシュタインは、自分は父親のように失敗したくはないと思い、成功できなかった父親を厭わしく感じる一方、誰よりも強く父親を愛してもいました。

 

アインシュタインの回想 「私は父の最期を見とりたかった。それで、部屋に入り、少し話をしました。そのとき父は、結婚を許してくれたのです。でもすぐに、もう行ってくれといって、壁に顔をそむけました。 その日、父は逝去しました。 たった一人で。」

 

1902年6月16日、彼は特許局の3級技術専門職に就き、年俸は3500スイス・フランであった。

 

1903年1月 父ヘルマンの死から、数カ月後、アインシュタインは、ミレーバと結婚しました。

当時のAlbertとMileva.


Albertの気質は、 自由闊達、 勝手気まま、 質素で無駄をしない、 己を隔離して思考にふける、 異性はmustだが、さしさわりのない関係を保つ、 ユーモアを好む・・・・・・ これからの家庭生活が思いやられますね。

 

アインシュタインの回想 「 あのときが、私にとっての転換点でした。人間というのは、はかない存在ですが、そうしたことにいつまでも捕らわれていてはいけないと、あのとき悟ったのです。 私のようなタイプの人間は、考えることにあります。感じることではないんです。」

 

 

数週間後、アルバートのもとに、ミレーバが妊娠したという知らせが届いた。

 

それから数ヶ月、ミレーバはチューリッヒで大学卒業の試験を受ける準備を進め、アルバートは臨時教員の職を転々とスイス中を飛びまわっていた。

 

「愛する人よ 結婚したら、一緒に科学の研究を続けよう。教養のない俗物として、年をとりたくないからね。今、きみ以外の人は考えられないんだよ。」
以後Einsteinは彼女と一緒に物理学を研究していこうと誓い、交際を続けていましたが、結婚は両家の反対にあっていました。

 

Einsteinは就職のためにかなり苦労をし、半年後に代理教員の職をやっと得ました。

 

結局、ミレーバは卒業再試験にも失敗し、科学者になる夢は消えた。彼女は出産するためスイスを去り、ハンガリーの両親のもとへ帰った。アルバートが、きちんと就職しなければ二人は、結婚できなかった。

 

いらだちがつのる中、ようやく朗報が届いた。アインシュタインはすぐさま、スイスの首都ベルンに向かった。特許局に就職が決まったのだ。


 Einsteinの朋友:数学者Marcel Grossmann

というのは、卒業の約一年後に、class mateであるMarcel Grossmannのお父さんの世話で、やっとBernの特許局に正式な職を得たのです。

 

彼女の名前はミレーバ・マリッチ。
当時、「ETH」はヨーロッパでも数少ない、女性にも門戸を開いている大学であった。成績が大変良かったミレーバは、ハンガリーからこの大学に入学し、アインシュタインと同じ物理の教職課程で学んでいたのだ。


  high teen時代のMileva. 生誕:オーストリア=ハンガリー帝国

 

彼にとって、ミレーバは夢の具現者だったのかも知れない。家族の束縛はなく、自立していて、アインシュタインよりも、ずっと自由だったのである。アルバートとミレーバは、しだいに、自分たちは同じタイプの人間だと考えるようになった。当時のアインシュタインにとっては、ミレーバとともに学び、湖のほとりを共に歩き、そして、物理学について互いに切磋琢磨して考究していく生活が最大の念願であった。

 

MilevaはHeidelberg大学から1898年4月にZürich連邦工科大学に戻り、微分積分学、画法幾何学、射影幾何学、力学、理論物理学、応用物理学、実験物理学、天文学等を勉強し、優秀な成績を残しています。

 

彼女はHungaryの裕福な家庭の出身でありました。Albert Einsteinと同様に、高等中学校での数学教員となるための学位コースに進んだ6人の生徒の中の唯一の女性であり、また、当学史上5人目の女性でもありました。
1900年8月、彼らは卒業しました。

1901年の春、二人は北イタリアの町コモ(ミラノの北約50km)で一時を過ごす。
 Comoの位置
 Comoの風景


この事実は、初期のラブレターから、ごく最近、明らかになった。
「可愛い小さな魔女よ コモに来ておくれ。きみにとって、ほんのわずかな時間しかかからないし、ぼくにとっては、天にも昇る歓びなのだから。満ち足りた明るい心と、その明晰な頭脳を持ってきておくれ。すばらしいところに案内するから。」

 

ミレーバの方は、次のように書き残している。
「わたしはコモへ行った。あの人が腕を広げ、胸をおどらせて待つ町。そこで半日過ごし、ミラカルロッタ(館の名前)を訪れた。自分のそばに、自分のために、愛する人がいてくれて、どんなに幸せだったことか。」