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chick3791 日常あれこれの発信

早や7月。
野菜・・ドイツ豆がよく実りました。大きくて、柔らかくて、おいしい。
果実・・桃が大きく実った。初めて沢山実った。何百個あるかな?
早速鳥がつつきに来るので、網掛けが大変。

身支度への対処

Einstein博士曰く、 「プリンストンで同僚の一人は私に次のようにたずねた。 『なぜ君は普通の人がするようなことをしないのか。つまり、何故私は髪を長くのばし、おかしな皮の上着を着て、靴下もはかず、サスペンダーをせず、カラーをつけず、ネクタイをしめていないのだろうか』・・・・・

 

これに対する私の答えは簡単である。つまり不必要なものを制限し、少なくすることによって、私の自由を大きくしようとしていることにある。我々は、非常に多くの物事の奴隷になっている。我々は、湯上がりに着る着物、電気冷蔵庫、自動車、ラジオ、そしてその他の多くの事柄の奴隷になっている。

 

アインシュタインは、これらを最小にしようと試みていたのである。長い髪は、散髪屋へ行く必要を最小にし、靴下ははかなくてもすむ、一つの皮の上着があれば、それは数年間にわたって上着の問題を解決する。サスペンダーは寝巻の長シャツやパジャマのように、余計なものである。

 

 

或る逸話

 

プリンストンの人たちは、アインシュ

タインに関して多くの逸話を語っている。その中につぎのようなのがある。

 

アインシュタインの近所に一人の少女が住んでいたが、この少女の母親はあるとき、少女が時々アインシュタインの家を訪問することに気がついた。そこで母親が不思議に思ってその理由をたずねると、少女は平気な顔でつぎのように答えた。

「私はあるとき、数学の宿題の中に解けない問題があって困っていたの。そしたら友だちが『あなたの近所の112番地には、アルバート・アインシュタインという世界的な数学者が住んでいる』って教えてくれたの。

そこでわたし、そのアルバート・アインシュタイン先生をお訪ねして、私の困っている宿題を教えて頂くよう頼んでみたの。そしたらその人は、とってもよい人で、喜んで私の困っている問題を説明して下さったの。とても親切に教えて下さったので、学校で習うより、よく分ったわ。しかもその人は、もし難しい問題があったら、またいつでもいらっしゃいと言って下さったので、難しい問題があると教えてもらいに行くのよ」

この少女の母親は、この話にびっくりしてしまって、早速アインシュタインの所へ詫びに行ったが、アインシュタインは、

「いやいや、そんなにお詫びになる必要はありません。私はあなたのお嬢さんと話をすることによって、お嬢さんが私から学んだこと以上のことを、お嬢さんから学んだに違いないからです」、と答えたという。

 


異性への対処
  1920年代、妻エルザは、名声が上がる一方の夫の地位を大いに楽しんだ。しかし、アインシュタインは、二人の間に、きっちりとした線を引いていた。寝室は別々、書斎には立ち入らせない。そして、彼は外で、年若い女性たちとつき合っていた。


  アインシュタインの回想、「結婚とは、偶然の結果を長続きさせようとする、成功の見込みのない企てです。結婚はすべて危険です。」
アインシュタインは、わずらわしいことのないセックスを望んでいた。家庭でも、極力、わずらわしさを避けていた。アインシュタインは、自分の義務が最小限ですむような形で、女性を追い求めた。快楽の追求は続いたが、もちろん、物理学の研究こそが最優先だった。


  アインシュタインの回想、「友人のミケーレ・ベッソは、一人の女性とずっと一緒に、幸せに暮らしました。私は、2度失敗しました。それも、かなり不名誉な形で・・・。私は、人間を愛せると思いますが、男女間の個人的なつながりということになると、わからなくなってきます。私は、単独で走る装備をつけた馬のようなものです。2頭だてや集団ではだめなんです。」


同胞への思い

  ドイツで、反ユダヤ主義が広まり、アインシュタインの物理学は「ユダヤ的」で不道徳だという批判が現れたとき、彼は孤立を守るという彼の信条を破り、ユダヤ社会の一員として振る舞うようになる。アインシュタインは、公然とユダヤ人として行動した。


  ユダヤ民族の宿命へのアインシュタインの積極的な関心は、ベルリン時代に始まった。彼にとって、この関心は、超国家主義(インターナショナリズム)的理想と、決して矛盾するものではなかった。
1919年の10月に彼は、物理学者ポール・エプシュタインに書いた。 「人間は、自分の部族の仲間への気づかいを失わずに、国際的な関心を持つことができるものです。」


  12月に、彼はエーレンフェストに書いた。「こちら(ベルリン)は、反ユダヤ主義が強く、政治的反動傾向は激しいものです。」彼は、その頃に、ポーランドおよびロシアにおける一層過酷な運命から逃れてきた大量のユダヤ人に対する、ドイツ人の敵対反応に特に激怒した。数多くのこれらの亡命者たちが、文字通り助けを求めて、彼の家をノックして来ていたので、アインシュタインは、彼らの窮状のことを、特によく知っていた。

 

 

 来日第一回目の講演会は、通訳も含めて五時間も続いたわけであるが、最後までこれを熱心に聴いた二千数百人におよぶ日本の大衆の態度は、アインシュタインに深い感銘を与えた。

 

 読売新聞はこのときのこと次のように報じていた。


 聴衆は長い長い間一人も動揺せずに静かにきいていた。アインシュタイン氏の声は金鈴をふるように音楽的であり、石原博士の説明は女子どもにも理解される平易な言葉使いである。二千数百人の聴衆は、理屈は分からないけれども全く酔わされていた。ちょうどアインシュタイン氏の催眠術にでもかかったように。


 11月30日付の読売新聞に、アインシュタイン博士のホテル生活という以下のような記事が掲載された。


 入京以来のアインシュタイン教授は、ずいぶん忙しい朝夕を過ごしている。夕食などはたいていホテルで食べないほどで、夫人同伴で宴会から宴会、招待から招待とよばれ続け、正午ごろ出ていくとホテルへは夜十時前には殆ど帰ったことがない。
 
朝は八時頃には起きるようだが、九時半ごろまでは絶対部屋つきの給仕を入れず、ドアの上には『ノックをしてはいけない』と書いた札を下げている。このわずか一時間くらいが教授のあらゆる研究にふける大切な時間であるらしい。


 九時からは夫人とともに、部屋へ非常に簡単な食事を運ばせて、手紙や訪問客らの名刺を整理する。入京早々の際には随分訪問客もあったが、教授夫妻の二室のほかに、改造社が一室を借りきって訪問客の仲取次をしている。


 昼食は部屋でとったり食堂へ出かけたりするが、部屋のときは一品か二品、ほんのおしるしの物をとり、些細なお金も無駄にしない、万事きわだった倹約ぶりが目立つという。アルコール分を含むものは絶対に避けて、ただ静かな時をすごすが、さすが教授は非常にゆったりと落ち着いたもので、雀の巣のような頭髪もほとんど手入れをしないそうだ。


 何か一つ給仕に小さなことをしてもらっても、一々丁寧に例の物やさしい調子でお礼をいい、物事はきちんと片づけるという風だ。ホテル内の他の泊まり客はいずれも敬意を表しているが、夫人が非常に近眼なので、ときどき間違って他人の部屋へ入ったりし、また、夫人の行動に信頼しきっている博士は、そのまま夫人についてその部屋に入り込み、学会の勇者もさすがにすこぶる恐縮して、あたふたと逃げ出すこともあったようだ。
 
 お風呂が大変好きと見え、どんなに遅くてもきっとお湯に入るが、十二時すぎて打ちとけて夫人と語り続けていることもあるという。荷物といっても夫婦でトランクが五つで、いろいろの服装も持ってきているようだが、どれもこれもびっくりするほど質素なものであるという。


 教授は寝床へ入ると、如何なることがあっても、どんな近親者が訪ねてきても、かねてから一切ドアを開かぬ人として評判である。教授は自分が寝床に入るときは、世の中のすべてから完全に免れるときで、いささかのことをも考えない。すべてを忘れてただ安眠のみを心がける。

 「他の学者は夢のなかで方程式を考えたなどというが、自分はすべてを忘れてただ安らかに眠り続けるだけである」 といっているそうである。

 

 

◎ 名言あれこれ_26
日本滞在中のエピソードの紹介-1。

 

  ア博士曰く、

「私が日本から招待されたということを聞いて人々は非常に羨ましがった。ベルリンに住んでいてあれほど羨ましがられたことははじめてであった。

 

 ベルリン・ブランデンブルク門

 

  私どもにとっては、日本という国は、薄いベールに包まれた不思議な国と思われている。その夢の国に私は招待されたのだ。日本人・・・ドイツでは淋しく暮らし、熱心に勉強し、親切に笑っている、その日本人の住んでいる国に私は招ばれたのだ。

 

  日本人のあの微笑! あの微笑の背後には、われわれの心とは質と形を異にしたやさしい日本の心情が潜んでいる。小さなかわいらしい日本の器具や、ときどき流行する日本風の読み物に現れている日本の雰囲気が、どんなにわれわれのそれと異なっていることであろうか」


  11月17日は、数日来の雨が晴れて、小春日和の日であった。北野丸が神戸入港前の様子を、アインシュタイン自身はつぎのようにのべている。

 

  「色々と想像はしていたものの、日本というものを明確に頭に浮かべてみることはできなかった。北野丸が瀬戸内海に入って緑の島々が朝日に照らされているのを見たとき、私の好奇心は極度に緊張した。

 

  船客と船員の顔は喜びに輝いていた。通常なら朝食の前には顔を見せないやさしい日本の婦人たちが、朝の六時というのに、もうデッキにとび出て、一時も早く故国の姿を見ようと歩き回っていた。

 

  寒い朝風が吹いていたにもかかわらず、人々が強い感激をおぼえているのをみて私の心は動かされた。日本人はその国土とその国民を愛している。おそらく日本人ほど愛郷心の強い国民は他にないであろう。

 

  日本人は外国語をよく話し、外国の事情に対して大きな研究心をもっている。それにもかかわらず日本人は、外国ではいつも遠来の客であるという感じから逃れることはできない。その理由はなんであろうかと、私は考えてみた。」


日本滞在中のエピソードの紹介-2。

  アインシュタイン夫妻は、ステーション・ホテルで小憩ののち、東京駅から帝国ホテルへ向かった。その帝国ホテルには、歓迎の花束で飾られた部屋が夫妻のために用意されていた。

 


   

  アインシュタインは、「この部屋はあまりぜいたくすぎます。このホテルは大層私の気に入りましたが、もっと質素な部屋ととりかえるよう山本氏に伝えて下さい」と言ったが、山本実彦氏の、「私は礼を尽くして、できるかぎりのことをあなた方に捧げたい希望をもっています、私の誠意だけは是非受け入れていただきたいと思います」という主張に押し返されてしまった。

 

 

  12月11日(月)、大阪中央公会堂で一般講演。
  12月13日(水)、神戸基督教青年会館で一般講演。
  12月17日(日)、22:14、奈良に到着。奈良ホテルで2泊する。
  12月18日(月)、奈良公園周辺を散策。春日若宮おん祭の後、宴能を鑑賞し、奈良国立博物館等を訪れる。


  12月20日(水)、宮島に到着。
  12月23日(土)、夜、門司市の三井倶楽部に宿泊。
  12月24日(日)、博多駅着(写真)、福岡市大博劇場で一般講演。東中州のカフェ・パウリスタで慰労会、旅館栄屋に宿泊。


  12月25日(月)、九州帝国大学訪問(理工学部にて)、博多見物。門司に移動して、門司YMCAのクリスマスパーティに参加し、ヴァイオリンでアヴェ・マリアを演奏。
  12月27日(水)、関門海峡や下関市を見物。
  12月28日(木)、夜、送別会。日本人列席者による義太夫、謡曲、長唄、槍さび、どじょうすくいなどの隠し芸と、返礼に博士によるヴァイオリン演奏3曲。

 

  講演の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田、京都、奈良、宮島などを観光し、能と歌舞伎も堪能した。26日に離日の予定だったが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、門司三井倶楽部に滞在した。


  12月29日(金)、午後3時、日本郵船「榛名丸」で門司港よりパレスチナに向けて出航・離日。

 

 

   再び場所をアインシュタイン博士の東京到着後に移し、その旅程の全日程を2回に分けて紹介する。

  ちなみに、一般公演の入場料は@3円/人(=オペラの上等席程度)、博士の公演時間は休憩をはさんで4~5時間/回、開催回数は東京2回、仙台・名古屋・大阪・京都・神戸・福岡が各1回ずつの計8回、参加者2000人/回として延べ16000人、概算売り上げ額は4万8千円。

  その他に、11月26日(日)~12月1日(金)の6日間は学術講演会、東大の物理学教室中央講堂にて@1.5時間を6回、講演内容は「光速度不変の法則」「自然法則とローレンツ変換の共変性」「テンソル解析法」「テンソル微分法」「万有引力」等。

  11月19日(日)、慶應義塾大学・三田大講堂にて2千数百名の入場者を集めて一般講演。題材は「特殊相対性理論について」「一般相対性理論について」

 


 

  11月20日(月)午後、小石川植物園で開かれた学士院の公式歓迎会に出席。夜は明治座で日本の芝居を見物。
  11月24日(金)、神田青年会館で一般講演。「物理学における空間および時間」
  11月27日(月)、宝生流の能を鑑賞。演目は「羽衣」(シテ:松本長)

  12月2日(土)、仙台駅着。アインシュタインが「命も危険」と思うほど歓迎の群衆が押し寄せ、駅前広場を挟んで向かい側にある宿泊先の仙台ホテルに辿りつくのに30分もかかった。東北帝国大学を訪問し、本多光太郎教授と会う。講義室の壁にサインを残すが、仙台空襲で建物が焼失したため、現存しない。
  12月3日(日)、仙台市公会堂で一般講演(9:30〜14:30。通訳:東北帝大・愛知敬一教授)。15:00発の東北本線に乗り、松島で月見をし、瑞巌寺を見学。仙台に戻って土井晩翠と会う。仙台泊。
  12月4日(月)、8:30発の列車で日光へ向かい、日光で2泊する。
  12月6日(水)、列車で東京へ。
  12月7日(木)、列車で名古屋へ移動。

  12月8日(金)、名古屋国技館で一般講演。
  12月9日(土)、列車で京都へ移動、

  12月10日(日)、京都市公会堂で一般講演。題材は「いかにして私は相対性理論を創ったか」、

 

  11月17日16:00過ぎに神戸港に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、東京帝国大学教授の長岡半太郎その他大勢。

 

  集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ大使館は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。

 

 質素な装束のアインシュタイン博士

 

  アインシュタイン夫妻一行は、神戸のオリエンタル・ホテルで小憩の後、午後五時、三ノ宮発の列車で京都へ向かった。途中大阪駅では、新聞や弁当の売り子の呼び声を面白がったアインシュタイン夫人は、これは一種の日本音楽だとその調子を真似てこれに興じた。

 

  その日アインシュタイン夫妻は京都の町を一回りしたあと、ぼんぼりの灯っている都ホテルで、来日第一日目の夜を過ごした。

 

  翌11月18日は、再び京都を自動車で一回りした後、汽車で東京へ向かった。この日は雲一つない秋晴れで、アインシュタイン夫妻は、琵琶湖、関ヶ原、浜名湖の秋景色、そして雪をいただいた富士山など、車窓から日本の景色を十分に楽しむことができた。

 

  こうして、アインシュタイン夫妻とその一行をのせた特急列車は、11月18日の午後7時20分に東京駅へ辷り込んだ。その東京駅のプラットホーム上は、数百人の出迎えの人たちで身動きもできぬほどであった。

  

  駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国ホテルは通常、車で5、6分程度だが、相当の時間が必要だったと記録されている。

 

 

◎ 名言あれこれ_22
  ここで皆様待望の、アインシュタイン博士のNobel Prizeに関する数々の思惑について、その顛末を簡易に述べてみたい。

 

  既述したようにアインシュタインは、1905年に、19世紀までの物理学をくつがえし、20世紀の物理学を支配する特殊相対性理論を重力場の存在する場合へ拡張することを試み、ついに1916年にいわゆる一般相対性理論を完成し、その理論は、1919年の日食観測によって見事に実証されていたのである。

 

  これほどの仕事をしたアインシュタインに対して、スエーデンのノーベル賞委員会がノーベル賞を与えるのにかくも長い時間を要してしまったのは、つぎのような理由によるものである。
 

ノーベル賞のメダル

 

  第一に、アルフレッド・ノーベルは、そのノーベル物理学賞を設定するに当って、賞金は、それによって人類が非常に大きな利用価値を得るような、物理学の最近の発見に対して与えられるべきであるということを規定している。

 

  ところが、アインシュタインの相対性理論は、新しい現象を主張するものではなく、それまでに知られていた多くの現象を統一的に、より簡単に理解する一つの原理を与えるものであった。

 

  したがってこれが果たして「発見」であるかどうかは、人々によって意見がわかれるところであった。ましてや、これが人類にとって大きな利用価値のあるものかどうかも、人々の意見にまかされるべき問題であった。
 
授賞式_1

 

  第二に、アインシュタインの相対性理論は、純粋に理論物理学の理論であるにもかかわらず、時間がたつにつれて、それは政治的な論争の道具に使われるようになってしまっていた。つまり、

 

  ◎当時の熱狂的なドイツ国家主義者たちは、ドイツの国力や軍事力は世界中を相手にしても決してひけをとるものではなかったにもかかわらず、第一次世界大戦におけるドイツの敗北は、ユダヤ人と平和主義者がドイツを裏切ったことに原因があったと信じていた。


アインシュタインはそのユダヤ人であり、しかも平和主義者であった。そしてそのアインシュタインは、ドイツの敵国イギリスの学者たちが認めたがゆえに有名になった相対性理論による名声を利用して、戦後も、ユダヤ人と平和主義のための運動を展開している。

 

  ◎もしスエーデン科学アカデミーのノーベル賞委員会が、アインシュタインの相対性理論に対してノーベル賞を与えるということになれば、それはスエーデン科学アカデミーが、政治的にアインシュタインの側に立つことになり、スエーデン科学アカデミーもまた、政治的論争の渦に巻き込まれてしまうおそれがあった。
 
授賞式_2

 

  以上二つが、スエーデン科学アカデミー・ノーベル賞委員会が、アインシュタインの相対性理論に対してノーベル賞を与えることをためらっていた大きな理由であった。

 

  ところが、スエーデン科学アカデミーはこれら二件を巧みに避けて、アインシュタインにノーベル賞を与える方法を思いついたのである。
それは、とりもなおさず、その「相対性理論」における業績ではなく、「光量子の理論」における業績に対するノーベル賞をアインシュタインに与えるということにあった。

 

 

◎ 名言あれこれ_21
    1922年10月8日、博士夫妻は日本郵船「北野丸」でフランス南部・地中海に面したマルセイユ港を出帆。

 

    西欧は1914~1918年の第1次大戦期間中に疲弊し、その間の武器・物資の需要等を一手に引き受けた日本は好況に沸き、その後の10年間は大正ロマンの日本の過ぎし良き時代でもあった。

 

    1909年建造の北野丸は花の欧州航路に就航していたが、第2次大戦の勃発とともに戦線に徴用され、その33年後にルソン島近郊で触雷を受け沈没している。

 

船上でのアインシュタイン博士と三宅氏

 

    出帆から約1か月後の1922年の11月10日、スエーデン科学アカデミーは、「1921年度のノーベル賞は、{光電効果の法則と理論物理学の領域における仕事}に対して、アインシュタインに与えられた」と発表した。


    博士は香港〜上海への途上の船上でこの電報を受けた。これは1922年度の同賞受賞者・ニールス・ボーアと同時受賞の発表でもあった。博士は旅行中のために当然授賞式典には参加できず、受賞者講演は1923年7月に行っている。

 

  アインシュタインの相対性理論は、学者の間ばかりでなく、世界の大衆の間で話題にされるほど有名なものになってしまい、それが政争の具に供されるという事態まで招いてしまっていた。

 

  一方、アインシュタインの光量子の理論は、相対性理論におとらずすぐれた理論であった。しかもその光量子の理論においては、確かに事実が発見されていた。

 

 船上での博士夫妻

 

  その北野丸は、11月13日の午前11時、上海に入港した。その時の様子を、11月14日付の読売新聞はつぎのように伝えている。

  

  船中にアインシュタイン博士を訪ねると、あたかもノーベル賞を授与されたとの報に接し、当惑の態で、自分の学説はそれほどに値するものではないと謙遜し、世界で12人しかこの学説を理解し得るものはないという説を否定した。

 

  一般的な科学的知識のある人ならば何人もよく理解し得るであろうと述べ、なお本年クリスマス島での日食の実験は、天候が悪かったので好結果は得られなかったと語った。


  博士は質素な背広服で、宗教家のような温和と謙遜の態度で接した。これらのニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。

 

  13日午前11時、北野丸は上海入港。14日朝、神戸に向かって上海を出港した。

 

 

  1921年、Einstein博士はカイム・ワイズマンの提案により、イギリス委任統治領パレスチナ(現在のイスラエル)のエルサレムに創立予定のヘブライ大学建設資金を調達するためにアメリカを訪問し、その帰りにニュートンの墓参を兼ねて、イギリスを訪問した。


  ヘブライ大学は、世界の優秀大学ランキング第26位、中東では最高の学府である。欧米の有名大学からの留学生が多い。

 Hebrew Univ. of Jerusalem、 創立1918年(大正7年)

 


 Jerusalem市内の遠景

 

  1922年、皆既日食が豪州で観測されるとあって、七つの観測隊が派遣されたが、キャンベル隊のみが撮影に成功し、重力レンズ効果を立証、ここに一般相対性理論は確立した。

 

  そのころ日本では、世界的に有名になったEinstein博士を招待し、その経費採算は講演参加料、関連書籍出版販売費で得ようとの企画が、改造社の創業者・山本実彦によりなされていた。

 

  日本滞在期間は1922年11月17日~12月29日まで43日間)。日本は大正デモクラシーの時期であり、社会的にも大きな意味を持っていた。


  ただし、アインシュタインは、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが訪日の目的であると語っている。

 

  

  アインシュタインは世界各地を旅行したが、それらの旅行はいつでも、政治的な緊張に結びつけられていた。 したがって彼は、彼の言動が彼の敵方によって悪用されないようにといつも気を配っていなければならず、そのために各地の珍しい風景や習慣を心から楽しむという余裕をもつことができなかった。


  しかし、この度の極東の日本を旅行する場合には、このような緊張からは全く解放されて、心からその旅行を楽しむことができるであろうと、アインシュタインは密かに考えていた。