今くるよさん死去 | 続アメマのおとしもの

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お笑い芸人の今くるよさんが27日、膵がんのため、大阪市内の病院で亡くなった。28日、所属事務所の吉本興業が発表した。

 

 

1970年に高校の同級生だった今いくよさんとともに女性漫才師の今喜多代さんに弟子入り。73年、女性漫才コンビ「今いくよ・くるよ」を結成した。男性中心の漫才界で、お互いの体型や派手なファッションなどをネタにし、体を張ったギャグや軽妙な掛け合いで人気を集め、80年代の漫才ブームに乗って一世を風靡(ふうび)した。

2015年5月28日に相方だった今いくよさんが亡くなるまで、花月の看板漫才師として長く活躍。

奇しくも相方と命日が一日違いとなった。

 

 

いくよ・くるよは漫才ブームまで8年間は泣かず飛ばずで、失礼ながらブームで売れたザ・ぼんちと共にホントにおもろない漫才でした。しかし1980年頃から突然の漫才ブームで一気に開花。

ブームで売れた紳竜やぼんち、のりよしが次々と解散していく中で、相方が亡くなるその日まで花月の看板漫才師として君臨してました。特に花月ではメクリが「いくよ・くるよ」と出ると、観客のどよめきが凄くあり、それは後年のNGKでもそうでした。登場すると衣装の奇抜さもあって、観客は歓声を上げるのが毎度のことでした。出オチなんで、ネタに入るとね・・・(笑)。

 

今回は2015年に亡くなられた今いくよさんの追悼記事とはなるべく内容を変えて、今くるよさんを偲んでみたいと思います。

 

 

 

 

まずはチラシやポスター類から。

 

昭和49年6月中席 なんば花月の新聞広告。

いくくるはコンビ結成1年目ぐらいでトップ出番。余談ですがB&Bの真一は今の上方よしお。吉本新喜劇は木村進、間寛平の座長お披露目作品。

 

 

 

昭和50年4月下席 京都花月の車内吊りポスター。

いくくるは相変わらずのトップ出番で、トリは師匠の洋之介・喜多代。

 

 

 

昭和57年1月上席 京都花月のポスター。

いよいよ漫才ブームが到来し一気に看板スターとなりまして、正月の京都花月を阪神・巨人と共に。

またもや余談ですが新喜劇は室谷信雄の初座長興行。なのにこの扱いの小ささは漫才ブームの影響でしょうね。

 

 

 

昭和60年6月7日 京都花月 オンナの時代・女の漫才「咲くやこの花」のポスター。

京都花月でのいくくるの特別興行で、ゲストに岸部シロー、沖田浩之。吉本新喜劇からは原哲男、桑原和男、高石太、井上竜夫、中川一美、柳井幸多朗、未知やすえ、杉本美樹、今岡まき子 他。

 

 

昭和56年にはこんな特別興行もやってました。

 

 

 

ここからは「マンスリーよしもと」の記事を少しだけ。

 

1981(昭和56)年6月号の「女性特集」より。誌上寄席「THE MANZAI」。舞台写真はなんば花月の緞帳前ですね。昔は看板さんでも出番の関係で、緞帳の前で漫才することがありました。

 

 

 

1983(昭和58)年3月号より。コンビ結成10周年「開幕ベルは鈴鳴りに」のイベントの記事。

ゲストに沖雅也。

 

 

 

最後はやっぱり舞台写真ですね。

 

昭和50年頃のなんば花月。

まだ揃いの衣裳で地味ですね(笑)。

 

 

 

昭和52年保育社発行の「寄席」より、京都花月の舞台。

 

 

 

そして時代はずっと進み、平成元年10月1日のなんばグランド花月。満席の客はやはり喜びますね。

 

 

 

そしてNGKと同じ日にうめだ花月に小づえ・みどりのスケで出番でした。

余談ですがこの日は「吉本新喜劇やめよッカナ?」の初日。

 

 

 

今頃あの世で、くるよ「マンはん、お待たせ」 いくよ「来るの遅いがな、9年も待ったわ。こんなとこから足出して」 くるよ「腕やっちゅうねん!」。

謹んでお悔やみ申し上げます。そしてお疲れ様でした、くるよさん。