今いくよさん死去 | 続アメマのおとしもの

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ベテラン漫才コンビ「今いくよ・くるよ」の今いくよ(いま・いくよ、本名里谷正子=さとや・まさこ)さんが28日午後5時58分、大阪府内の病院で亡くなった。67歳。京都府出身。昨年9月に胃がんが見つかり、闘病しながらステージに立ってきた。細い体形と濃いめのメークで知られ、84年には上方漫才大賞を受賞するなど、本格女流漫才師として活躍した。通夜は29日、告別式は30日に京都市内で、家族と近親者のみで執り行う。後日、大阪市内でお別れの会を開く予定。(スポニチアネックス)
 
 
胃がんの手術後、舞台復帰しその特集もテレビで最近やっていたので、順調に治療が進んでるものだと思っていました。実際には、「かなり体力的にも厳しいものがあったようです。舞台を降りるとつらそうだった。気力と体力を振り絞って漫才をしていた」と関係者。普通の人でも15分の舞台は体力、気力も消耗しますから、いくよさんは好きな漫才ができるという気力で舞台に立っていたのでしょうね。
 
これまでの既出画像で特集を組み追悼したいと思います。
 
 
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デビュー当時の宣在写真。
いくよ・くるよの舞台は数えきれないほど見ました、漫才ブームの81年頃までは全く売れずに解散も考えていたそうですが、「花王名人劇場」の出演で、あのお腹を叩くギャグで一躍売れっ子に。
 
 
 
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漫才ブームの頃。このぐらいの時期までは二人はお揃いの衣装でした。
それ以降、奇抜な舞台衣装でさらに人気を博し、長年花月の看板さんとして活躍しました。
同じ女性漫才コンビの小づえ・みどりが外様だったこともあり、会社は人気が出てきたいくよ・くるよに力を入れるのは当然の成り行きでした。
 
 
 
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1987(昭和62)年、NGKオープンの頃。
奇抜な舞台衣装で人気を博していて、トリを飾ることも多く、めくりが「いくよ・くるよ」と出ると花月の客席はざわめきました。しかし衣装に力を入れてしまった分、ネタがマンネリになり、新ネタをしても練れていないので、面白さが発揮できないことも多々ありましたね。
 
 
 
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昭和54年6月中席、京都花月のポスター。
いくよ・くるよはコンビ結成して6年目ですが、まだトップ出番。売れない苦労時代が長く続きました。
 
 
 
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昭和57年8月中席、京都花月。
ところがその3年後、漫才ブーム到来。3年前に小さな文字で乗っていたザ・ぼんちと共に一躍看板スターに。
 
 
 
お次は舞台写真。
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昭和62年7月28日、うめだ花月。大助・花子のスケで、なんと夜の部トップに緞帳前で漫才。
 
 
 
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昭和62年8月18日、うめだ花月。お盆興行で場内超満員。この日は4本目のかなり早い出番でした。
 
 
 
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昭和62年5月11日、うめだ花月。昼の部の最初によみうりテレビの番組収録があり、横山やすしと漫才を。二人とも亡くなってしまいました。
 
 
 
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昭和64年1月6日、うめだ花月。お正月興行ですが、昭和天皇の体調を配慮し、いつもに比べて自粛ムード。
ですが、舞台はやっぱり賑やかです。
 
 
 
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平成元年9月10日、なんばグランド花月。もうこの頃になると、ネタよりもどんな衣装で登場するか、観客も待っていたと思います。ここ何年かはくるよさんの衣装がずれるというネタを、いかにハプニングに見せるかというのがほとんどでした。
 
 
 
以前にも書きましたが、いく・くるの思い出のひとつとして、昭和62年3月にうめだ花月に行った時に、いくよ・くるよがTVの仕事の都合で劇場の出番に間に合わなかった。そしてトリの新喜劇も終り、お客さんも帰りかけた頃に「いく・くる」登場。
緞帳の前で、残ったたった10人ほどの前で15分漫才をしてくれて、最後にはお客さん皆と握手をしてくれた。
というのが、いつまでも記憶に残っています。
劇場を大事にし、守り続けるコンビがまたひとつ消えてしまったこと、いくよさんはまだまだ漫才をしたかっただろうなと思う無念さ、相方を残して逝ってしまう心配などを考えると、非常で残念でなりません。
 
 
謹んでお悔やみ申し上げます。そしてお疲れ様でした、いくよさん。