花紀京が肺炎のため昨日8月5日に入院先の大阪市内の病院で逝去したことを、所属事務所のよしもとクリエイティブ・エージェンシーが発表した。78歳だった。
京やんはご存知、横山エンタツの息子でして、関西大学に入学後、花登筺に弟子入り、その後は「笑いの王国」に参加。
1962(昭和37)年に吉本新喜劇に入団し、白羽大介との二枚看板に。翌年には単独座長に昇格。
1964(昭和39)年には再び、白羽との二枚看板に戻るも、1965(昭和40)年末から単独座長に。その座にいた原哲男とのコンビの掛け合いが人気になる。
1969(昭和44)年に専科入りし、この頃から岡八郎の組に出ると京・八コンビが絶好調となる。
1980(昭和55)年末からは岡八郎と漫才コンビを結成して、花月の舞台に立つことも。
新喜劇以外にも梅コマなどで北島三郎や藤田まことの公演に参加することも多く、単なるコメディアンでなく役者として評価されていました。
1989(平成元)年の新喜劇のリニューアル「やめよッカナ?キャンペーン」前の9月に退団。その後は、商業演劇やテレビドラマにも出ていましたが、2002(平成14)年8月に脳腫瘍の摘出、2003(平成15)年5月には自宅で入浴中に低酸素脳症を発症して病院に搬送されてからは療養生活に入ったため、舞台に出ることはなく、2015(平成27)年8月5日午後7時半すぎ、肺炎により入院先の大阪市内の病院で死去されました。
弟子という形はとっていなく、レツゴーじゅん、チャーリー浜、間寛平、中岡秀樹、武内正和、内場勝則らが付き人という形でした。今は活動を休止している中山美保とは義理の姉弟の関係です。
この10年の間に岡八郎、原哲男が亡くなり、ついに京やんまでが・・・。
ギャグ先行の新喜劇の中ではギャグがなく、芝居の筋に沿った笑いを取るのが、京やんの特徴。芝居の芯になるより、そこに絡む関係のない人物で、笑いを増幅させることが上手かったですね。
たまーに、芯になると頑固親父とかが多かったです。
衣装はほとんどが作業員のニッカポッカに腹巻に毛糸の帽子。たまに警官とかやったら違和感丸出し(笑)
さてこれからは既出画像で京やんを偲んでみたいと思います。
昭和38年10月下席 なんば花月のチラシ。 座長になった頃の京やん。まだ26歳ですよ!
座員を見ると現役なのは桑原和男と浜裕二(チャーリー浜)だけ。泉ゆたかとは泉ひろしのこと。
おなじみのスタイルで登場。家出した子供を京やんが面倒を見る。
当時は終演後に舞台挨拶がありました。
昭和62年8月中席 うめだ花月 「暑いの暑いの飛んで行け!」(TVタイトル「櫓の上に花が咲く」)
左から、池乃めだか、南喜代子、花紀京。
団地の盆踊りを舞台に、たこ焼き屋の京やんが一肌脱ぐ。
たこ焼き屋の京やんと和子さん夫婦。そこへ和子さんの別れた子供が現れて・・・。
昭和59年11月上席 うめだ花月のポスター。新喜劇、めちゃくちゃ豪華メンバーですねぇ。
お話は船場太郎が経営する運送会社を運転手の岡八郎が救う話。京やんは同じ運転手ですが、イランことばっかりしてます(笑)
少しでしたが、京やんを偲んでいだけましたでしょうか?
もうあの世で八ちゃんと好きな酒を飲んでるのかなぁ・・・原さんや参平さんに「もうほどほどにしときや」なんて言われながら。
慎んでご冥福をお祈りいたします。