アメリカ金持ち思想の源流を探る
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8-11 効率的、効果的、合理的な資本主義の法律をめざして

『道徳と立法の諸原理序説』第12章(悪行為の諸結果について)、第13章(刑罰に相当しない場合)、第14章(刑罰と犯罪との均衡について)、第15章(刑罰に与えられなければならない諸性質について)、第16章(犯罪の分類)でベンサムは、刑法総論を述べている。


第13章に次のような記述がある。

「・・・事後法による遡及処罰を科すべきではない。・・・年少者、精神異常者、酩酊者の行為、また非意図的、無意識的、想像錯誤的な行為にも刑罰を科すべきではない。さらに緊急避難の行為や威嚇のもとに行われた行為についても同様である。」

これは今の法制度でもそのまま通用している考え方である。


「刑罰によって防止しようとする害悪がどのようなものであっても、できるだけ安価な費用で防止することである」という記述もある。


「ベンサムの主張は、当時のイギリスの刑法の不合理と矛盾に対する彼のきびしい批判に立脚していた、人間性の科学的分析にもとづく簡潔で明快な刑法典の編纂が、彼の終生の抱負であった」(同書 中央公論社 世界の名著49 P207)


「彼は刑罰の科学的な客観性を主張し、当時の刑法の矛盾を批判したが、そのことは結果的に刑罰の緩和と人道化に大きな貢献を与えたのである」(P208)


第16章は、全体の4分の1を占める膨大な章であるが、簡潔な要約はまったく不可能とのことである(P208)


『道徳と立法の諸原理序説』第17章(法学の刑法部門の限界について)において、同書は次の記述によって締めくくられている。


「・・・ベンサムは、立法の領域を他の人々の幸福を減少させる行為の防止と処罰という消極的な機能にほぼ限定し、個個人の幸福増進を名とする立法の直接的介入については、きわめて批判的な態度を示している。

ベンサムの立法論の目的は、能率的な法律の運用によって、社会秩序を確保する方法を探究することにあったが、各人は自己の幸福の最善の判定者であり、また自発的に他の人々の幸福を促進する動機を十分にもっていることを信頼して、誠実と慈善の徳に期待する、楽観的な人間観がベンサムの立法論の基礎にあったといえよう。」


ここにケインズなど公共投資を重視する積極的な福祉策と異なり、個人の自発性を優先させる、市場原理主義に近い思想の原型があると思う。

8-10-5 心の中のたくさんの動機は整理しよう

『道徳と立法の諸原理序説』第10章(動機について)第5節(諸動機のあいだの対立)でベンサムは、


①動機は害悪の大きさに重大な相違をもたらす。

②それは確かめるのに容易である。したがって、それは刑罰に対する要求の相違の根拠とされる。

 (しかし、他の場合には、動機はまったく確かめることができない)

③動機という問題は、その源泉にまでさかのぼって犯罪と戦うために提案される手段に判断を下すうえに、十分に理解されることが必要である。


といい、これらの実際的な考察の理論的な基礎を完全に固めるためには、気質という問題について述べる必要があるとして、第11章で、人間の気質一般についてテーマとしている。


気質が有害な人と有益な人にわけられる根拠は次のとおり。

①通常、行為の結果は意図に一致することが多い。

②あるときに悪行をしようという意図をもつ人は、他のときにも同様の意図をもちやすい。


特に刑法において、気質の善悪を考慮に入れることが重要。気質は意図の総和だが、意図は動機の種類によって影響を受ける。

ひとつの行為には、さまざまな動機が作用する。

有害な行為をうながす誘惑的動機に対し、抑制的に作用する動機は保護的である。


ある人の気質の善悪を判断するための規則は次のとおり。


①誘惑の強さを一定とすれば、行為によって示される気質の有害性は、その行為の外見的な有害性と同一。

②行為の外見的有害性を一定とすれば、ある人を克服した誘惑が弱ければ弱いほど、その人の気質は劣悪。

③行為の外見的有害性を一定とすれば、その行為がある人の気質の劣悪性について示す根拠は、その人を克服した誘惑の力が強いほど、確実性の程度が少ない。

④動機が反社会的な種類のものである場合、行為の外見的有害性と誘惑の強さを一定とすれば、気質の劣悪性は、その行為にともなう熟慮の程度によって決まる。


上記のとおり、本著作では、次第にベンサムの刑法論となってきており、次章から刑法総論に入る。


8-10-4 どんな動機が功利的なのか?

『道徳と立法の諸原理序説』第10章(動機について)第4節(諸動機の間の優劣の順序)でベンサムは、


「好意はその命令が、・・・・功利性の原理にもっとも確実に一致する動機である。なぜならば、功利性の命令は、もっとも広範囲の、そして開明的な〔すなわちよく熟慮された〕慈愛の命令にほかならないからである。・・・・」

という。そして、


「私的な慈愛を功利性の原理によりよく適合させる事情は、文明社会においては、私的な慈愛の命令そのものが公的な慈愛の命令に対立する傾向があるようなたいていの場合に、それは法律によって課せられる自己中心的な種類のもっと強力な動機の対決を受け、それが自由に放任されるのは、他のもっと有益な命令によって反対を受けない場合に限られるということである。


ある人が自分の父や子のために犯した不正や残虐の行為も、それを自分自身のために犯した場合と同様に、正当な理由によって罰せられるのである。」


としている。

このあたりの感覚は、ミステリーやサスペンスのテーマにもありそうである。

また、他人に迷惑をかけないかぎり、自由に幸福を追求できるという考えが、日本国憲法同様、この功利性の原理に貫かれているということなのだろう。


ちなみに「好意の命令」についで、2番目に功利性の命令に一致する機会をもつのは、「名声への愛」、3番目は、「親睦の欲望の命令」、4番目は「宗教の命令」だという。

8-10-3 快楽と苦痛のリストは価値を測定するツール?

『道徳と立法の諸原理序説』第10章(動機について)第3節(快楽と苦痛の目録に対応する諸動機の目録)でベンサムは、


「・・・感覚の快楽から、中立的な意味で肉体的欲望と呼ばれる動機が生まれる。それは悪い意味では情欲と呼ばれる。」という。

また、「嗜好または味覚の快楽」に「味覚の快楽の好み」という中立的意味の動機を対応させる。


以下同様に、「性的感覚の快楽」に「性的欲望」、「好奇心の快楽」に「好奇心」、「富の快楽」に「金銭的関心」、「親睦の快楽」に「ある人に気に入られようとする欲望」、「道徳的制裁(よい評判)の快楽」に「名声への愛」、「権力の快楽」に「権力への愛」、「宗教的制裁の快楽および苦痛」に「宗教」、「共感の快楽」に「好意」、「悪意または反感の快楽」に「反感または不愉快と呼ばれる動機」、「苦痛と快楽の終わりである死」に「自己保存」、「努力の苦痛」に「安逸への愛」というように、快楽の種類に応じてそれに対応する動機としての欲望の種類を対応させている。


「・・・ある種類の動機がその結果を考えた場合に、なんらかの正当性をもって悪い動機と呼ばれることができるのであれば、ある期間内に善悪の両種類についてその動機がもつことができる、あらゆる結果の差し引き残高、すなわち、もっともふつうの傾向の差し引き残高についてだけ、そのように呼ばれることができるのである。」 


「陳腐な道徳観は色欲、残虐、食欲などという名称に非難のしるしをつけるだけである。それはものごとに適用されたときには誤りである。それは名称に適用されたときには、実際に真実ではあるが、しかし無意味である。

あなたが人類に真の奉仕をしたいのであれば、性的欲望が色欲という名称に、不愉快が残虐という名称に、金銭的関心が貧欲という名称に値する場合を、彼らに示さなければならない。」


「よい動機の分類には①好意②名声への愛③親睦の欲望④宗教が入る。悪い動機の分類には、⑤不愉快が入る。中立的動機の分類には⑥肉体的欲望⑦金銭的関心⑧権力への愛⑨自己保存(感覚の苦痛の恐怖、安逸への愛、生命への愛を含む)が入る。」といいつつ、このような分類方法は、きわめて不完全で、誤りの危険があるとしている。

その動機が含む善悪の価値が、どんな善悪の結果を生んだかを正確に確かめる研究方法を見出すのは困難だからである。


「一つの動機を安全に、また正当に、よいとか悪いとかいうことができる唯一の方法は、個々の場合のその結果に関連させて判断を下すこと、特にその動機が生み出す意図に関連させて判断を下すことである。・・・同一の動機からあらゆる種類の意図が生み出される。したがって、このような事情は、さまざまな種類の動機を分類する糸口を与えるものではない。」


「したがって、もっと便利な方法は、当事者自身は問題外として、動機を社会の他の成員の利益に与える影響によって分類すること、すなわち動機を当事者の利益と社会の他の成員の利益とを結びつけたり離れさせたりする傾向にしたがって、分類することであるように思われるであろう。 


このような構想によれば、動機は社会的なもの、反社会的なもの、自己中心的なものの三つに分類されるであろう。

社会的な動機の分類には、①好意②名声への愛③親睦の欲望④宗教が数え上げられるであろう。反社会的な動機の分類には⑤不愉快が、自己中心的な動機には⑥肉体的欲望⑦金銭的関心⑧権力への愛⑨自己保存が数えあげられるであろう。


社会的な動機と名づけられた動機について、さらに区分することが必要であるならば、好意の動機だけが純粋に社会的な動機という名称を与えられ、名声への愛、親睦の欲望、および宗教の動機は、ともに準社会的な動機という分類のもとに一括されるであろう。なぜならば、社会的な傾向は、後者より前者の場合に、ずっと恒久的で明白であるからである。・・・」


という。その理由は次節で述べられるようである。


「快楽(苦痛)」「欲望」「動機」「意図」「結果」という概念を関連付けて、個人と社会における善悪の価値を判断する方法は、現代においても法的結論を判定する際に生きている方法である。

また、経済や経営・ビジネスにおける利益や計画などを判断する際にも、上記ような具体的、現実的概念の分析・分類は、基本的に有効なものであろう。

文学的、幻想的、物語的な人生観、幸福感ではなく、現実的、分析的な幸福概念の構築。それは無味乾燥で、あからさまで、あまり夢のあるものでも楽しくとっつきやすいものでもないかもしれない。しかし、不当ででたらめな感覚・感情をもった自己、他人や社会に振り回されがちな生活を、客観的に見直して、自己のペースで実現可能なプランをもちつつ継続していくためには有効な方法であろう。それは産業革命後の資本主義社会において特に有効な方法であるともいえよう。


この現代社会をも支配する18世紀の思想を、根本的に超える思想は、IT革命を経験している現在において、生み出されつつあるのであろうか?

8-10-2 動機を表すことばを中立的にする方法は?

『道徳と立法の諸原理序説』第10章(動機について)第2節(どんな動機も、いつでも善であったり、いつでも悪であったりすることはない)でベンサムは、


「快楽はそれ自体として善」「苦痛はそれ自体として悪」であるから、

「それ自体として悪いものであるような、どんな種類の動機も存在しない」


しかし、動機を表現することばには、

「よい意味でだけ用いられることば」(敬虔や名誉心など)、

「悪い意味でしか用いられないことば」(色欲や貧欲など)がある。

という。


「このようなゆがめられた観念連合が、われわれがとりかかろうとしている研究の途上に、大きな困難を投げかけるにちがいないということは明白である。・・・・・

・・・・このような不都合をすっかり除去するためには、一つの不愉快な打開策しかない。

それは古い用語法をやめて、新しい用語法を発明することである。」(P179)


「・・・一つのことばのかわりに二つのことばを用いることによって、全く新しいことばを組み立てることの不都合を避けることができる。

たとえば色欲ということばのかわりに、二つの日用語を組み合わせて、性的欲望・・・・・貧欲ということばのかわりに・・・・・金銭的関心という中立的な表現をつくることができる。・・・・

私は・・・・一つの中立的な表現に固執して、その意味が偶然的で不適当な観念の悪影響を受けていることばを全く拒否する・・・・・」(P180)


上記のようにベンサムは、よい悪いの価値や偏見を最初から含んでいることばが、コミュニケーションを混乱させてしまうため、ことばは中立的なものにすべきだという。

国際的(インターナショナル)ということばもベンサムが造ったものだそうだ。

ことばの概念を明晰にすることで、あいまいさや間違った認識を正そうとするのは、英米系の哲学らしいと思う。

そのことが、神秘主義やナンセンスを取り除き、思考を科学的にするために有効なのかもしれない。

8-10-1 純粋に思索的な動機に意味はないのか?

『道徳および立法の諸原理序説』第10章(動機について)第1節(動機ということばのさまざまの意味)でベンサムは、

さまざまな行為や犯罪を生みだす動機について考察している。


「・・・知的能力の行為以外に影響を与える性質をもたないような動機は、純粋に思索的な動機、または思索の中にとどまる動機と呼ばれることができる。

しかし、このような思索的な動機は、外部的な行為やその結果に対して影響を与えることはなく、したがって、その結果の中に含まれる苦痛または快楽に対しても影響を与えることはない。

ところで、ある行為が実質的となることができるのは、ひとえにそれが苦痛または快楽を生みだす傾向のためである。したがって、純粋に知性にとどまっているような行為については、われわれはまったく関心をもたない。・・・・

われわれが関心をもつ唯一の動機は、意思のうえに働きかける性質をもつものである。

したがって、このような意味での動機とは、感じうる存在である人間の意志に影響を与えることによって、その人が自分の行為を決定したり、何かの場合には行為することを自発的にさし控えたりする手段として役だつと想像されるもののことである。

このような種類の動機は、前に述べた思索的な動機と区別して、実践的な動機、または実践に適用される動機と呼ぶことができる。」(P172~173)


上記のとおり、ベンサムは、行動に影響しない「純粋な思索とそれによる動機」などにはまったく関心をもたない。

意志に働きかけ、行動を決定する手段として役立つ快苦に係わる実質的で実践的な動機こそ唯一の関心事だという。

経験論発祥のイギリス人思想家らしい。(ドイツ観念論などとは異なる)

このよう現実性が、英米の哲学の強みともいえよう。

このような哲学は、学者というよりは、企業の経営者が、経営の決断をするときの考えの方に近いのではないか。


この後、ベンサムは、動機の意味や分類などの分析を続け、それが刑の判定などに重要となる「理由」にもなるということを次の文で示唆している。

「このような動機を指摘することこそ、われわれが理由を述べるという場合にしばしば意味することである。」(P176)


章の終わりでベンサムは次のように述べている。

(住人に火事の危険があることを)「このように注意することによって、私は知性に動機を示唆するのである。

そのような動機は、苦痛を生みだし苦痛を強める傾向―その傾向が現存の内的動機という性質をもってあなたに働きかけるのであるが―によって、力を合わせて、意志に動機として働きかけるのである。」(P176)


ベンサムの理論は、快苦にかかわる動機が人の行動に現実的に影響を与える状況を分析し、快苦が人をコントロールするという管理術に通ずる(使い方によってはある意味おそろしい)原理としても基礎付けられたように思える。

8-9 意図の区別や定義は道徳と法律の両方に適用できるのか?

『道徳および立法の諸原理序説』第9章(意識について)でベンサムは、

前章で考察した意図について、知性(認識能力)が果たす役割を考察している。


ある人がある行為を意図的にした場合、行為の諸結果を生んでいる諸事情について、その人は意識的であったか無意識的であったかのどちらかであり、

意識的であった場合の行為は熟慮された行為、無意識的であった場合の行為は熟慮されない考慮であるなどという。


「・・・行為の結果が有益なものであるばかりでなく、それを生み出した動機がよいものであっても、意図は悪いということもありうるのである。」(P168)

「意図が悪くても動機がよい場合もあり、動機が悪くても意図がよい場合もある。」(P168)

と日常では混同している意図と動機を完全に区別して使うべきだとも述べている。


また次の文のようにローマ法があいまいさによって、事実や客観性より感情による判定を生むことを批判しているようだ。

「(ローマ法では)・・・・過失、重過失、微過失の区別には、確実なものは何ものもそれに対応することができない。

そのような区別は何を表現するのであろうか。

それは実体上の区別ではなく、だれか〔たとえば裁判官〕がそれについていだく感情の中に存在するにすぎない。・・・・・」(P170)


章のまとめでベンサムは次のように述べる。

「これまで述べてきた区別や定義は、けっして単なる思索上の問題ではない。

そのような区別や定義は、立法上の論議にも道徳上の論議にも、きわめて広範囲に、またいつでも適用することができるのである。・・・・・


行為のある事情について意識が存在することは、きわめて多くの犯罪的な事情を構成し、またある犯罪の構成の本質的な要素となる。・・・・・


ほとんどすべての場合に、ある結果について意図が存在しないことや、ある事情について意識が欠けていたり、誤った想像が存在していることは、酌量の多くの理由を構成するであろう。」(P171)


ベンサム自身述べているように、これまでの様々な概念の区別や定義は、一見抽象的な理論(空論)のようだが、実際に立法上、道徳上の議論に具体的に適用できる実際的なもののようだ。

それから、道徳と立法(法律)を別な次元でなく、同じ理論的土台のうえで論じている点で、彼は、「道徳と立法(法律)の科学的(現実的)な統一理論」を作ったのだろう。(と私は一人で納得しています)

8-8 快苦に係わる意図と行動の関係とは?

『道徳および立法の諸原理序説』第8章(意図について)でベンサムは、

意図という特殊な事情が行為とどのような関係をもつかを次のように分類して考察している。

1 意図(意志)は、2つの対象(①行為そのもの②その結果)のどちらかに関係している。

2 ある結果はそれが意図的である場合、直接的に意図的か、間接的に意図的かのどちらかである。

3 直接に意図的なある出来事は、究極的に意図的か、中間的に意図的かのどちらかである。

4 ある出来事が直接的に意図的である場合には、それは排他的に意図的か、非排他的に意図的かのどちらかである。

5 ある出来事が排他的に意図的である場合、それは連結的、分離的、無差別的の、どれかの形で意図的である。

6 二つの出来事が分離的に意図的である場合、その出来事はどちらかへの好みをもって意図的であるか、または好みなしに意図的である。


また、意図について、

「厳密にいえば、よいとか悪いとかいうことができるのは、そのもの自体すなわち苦痛または快楽についてだけか、あるいはその結果によって、すなわち苦痛や快楽の原因、または苦痛や快楽を阻止するものについてだけであり、それ以外によいとか悪いとかいうことはできない」

「意図の効果は、結果と同一」

「意図の原因は動機」

「行為の結果から生みだされる、ある人の意図の善悪について述べなければならないことは意識の項目に属し、また、動機から生みだされる、その人の意図について述べなければならないことは、動機の項目に属する」

などという。


前章もそうだが、この辺りの記述は刑法に関わるようだ。

意図について、いろいろ細々とした分類が抽象的に述べられ、その具体的例示もあるのではあるが、わかりにくい。


このような分析は、立法や刑の執行に役立つのかもしれない(実際ベンサムのねらいはそこにあるのだろう)。

そしてやり方によっては、自分や他人の価値や幸福を計測(価値の損益計算、幸福度の判定など)し、幸福を目的とした行動を計画する際に役立てることができるかもしれない。

それは心理学にもつながるであろう。

しかし、今の自分には、何が幸福であるのかを頭でなく感情によって実感できなければ、それはどうしたら見出すことができるのかを具体的に知らなければ、幸福を計算してみても虚しいだけに思える。


ベンサム流の快苦をともなう行為についての分析は、少なくとも法律を専門とする職業についている人たち(法学者、弁護士、立法家、裁判官など)や裁判の当事者たちににとっては役に立つ材料を提供したのであろう。

それは、ある特定の階層の人たちに特に役立ったのではないかと推測したいところだが、彼の(人道的な)理論の構造からして他の階層の多くの人々のためにもなったと考えてもまったくおかしなことではない。

8-7 快苦に影響するものだけが実質的な行為なのか?

『道徳および立法の諸原理序説』第7章(人間の行為一般について)でベンサムは、次のように述べる。


「政府の仕事は、刑罰と報酬によって、社会の幸福を促進することである。

政府の仕事のうち、刑罰に関する部分は、特に刑法の対象である。

ある行為が社会の幸福を阻害する傾向が大きければ大きいほど、その傾向が有害であればあるほど、その行為が呼び起こす刑罰の必要は大きいであろう。

・・・・・

ある行為の一般的傾向は、その結果の総計に従って、すなわち、よい結果の総計と悪い結果の総計との差に従って、多かれ少なかれ有害である。

今の場合でも、これから先の場合でも、結果について述べられる場合には、実質的な結果だけが意味されていることが、認識されなければならない。

すべての行為の結果について、その種類と多様性は無限なものであるにちがいないが、そのうち実質的なものだけが、考察される価値をもっているのである。

ところで、ある行為の結果がどのようなものであっても、そのうちで立法者の立場から見る人にとって、苦痛または快楽からなるもの、また苦痛が快楽を生みだすことに影響を与えるものだけが、実質的である(すなわち、重要性をもつということである)といわれるのである。」(P148)


ここでは、刑罰、刑法に係わるような、有害な行為の快楽計算の結果は、実質的なものに限ると強調している。

そしてこの後、行為一般について、具体的にさまざまな考慮や分類を行っている。


「このような分析は、道徳的な主体が関係をもつ事がらの場合と同様に、純粋に自然的な事がらについても適用することができる。

したがって、その分析が道徳的な事がらについて、正しくまた有益であるならば、おそらく自然哲学にもなんらかの形で役だたせることも、不可能ではないだろう。」(P158)


とベンサムが述べているように、行為の事実関係などの分析や論理は、自然哲学も使えそうな論理的現実的なものであり、基本的な考え方は今の時代の法律の体系や用語にも生きているような気がする。


このような功利主義の理論は特に英米系の法律には大きな影響を与えているのだろう。

それは実際どの程度の影響かはわからない。

ドイツやフランスの法典などの影響が強い日本の法律にもどの程度影響を与えているのかわからないが、時間があったら調べてみたい。

8-6 感受性に影響する諸事情は何か?

『道徳および立法の諸原理序説』第6章(感受性に影響を与える諸事情について)でベンサムは、


「一定の力をもつある原因の働きによってある人がある量の快楽または苦痛を感ずる傾向は、われわれがその人の感受性の程度、または量と呼ぶものである。」(P124)


「ところで、ある人がある刺激的な原因(快楽または苦痛の原因として作用するすべての出来事)にぶつかった場合に、経験しやすい快楽または苦痛の量は、その原因に全面的に依存するわけではないから、ある程度までその他の事情または諸事情に依存するであろう。

これらの諸事情は、どのようなものであっても、感受性に影響を与える諸事情と名づけることができる。」(P125)


と述べ、快苦の量に影響を与えるのは、その原因となる出来事だけでなく、各人の感受性に影響を与える諸事情にもよっており、その諸事情は次に列挙したようなものだという。


1健康2強権3強壮4肉体的欠陥5知識の量と質6知力の強さ7精神の堅固さ8精神の持続性9好みの傾向10道徳的感受性11道徳的傾向12宗教的感受性13宗教的傾向14宗教的感受性15同情的傾向16反感的感受性17反感的傾向18精神異常19習慣的な仕事20金銭的事情21共感の上でのつながり22反感の上でのつながり23肉体の基本的構造24精神の基本的構造25性別26年齢27地位28教育29気候30血統31政府32宗教的信仰


ベンサムは、これらの諸事情のそれぞれについて説明を加えているが、以下におもしろいと思ったものを抜粋したい。


「金もうけだけを考えることは、その人の金銭的な事情の項目に属する。もしも、刑罰その他の刺激的な原因によって、その人がこのような仕事に従事し続けることができなくなったならば、それだけで非常につらいことであることは明らかである。・・・・

金もうけの楽しみ、またその方法は、ある人の日常的な仕事の対象であったことはけっしてなくても、その人の好みの傾向の対象であるかもしれない。

なぜならば、その人が金もうけをしようとしても、力がおよばないために、とてもできなかったのであるかもしれないからである。

金もうけということは、その人をたまたま妨げたちょっとした出来事の結果によって、大きなくいちがいを生じやすいものなのである。」(P132)


「欲望は、〔したがって、欲望と関係をもつ欠乏の苦痛も〕以前に享受されたことがなければ、まったく存在することがない場合が多い。」

「現在の偶然的な要求については、一定の金額が、別のときの同じ金額よりも無限に大きな価値をもつ場合があることは明白である。

たとえば、さしせまった医療を必要とする緊急の場合や、自分のすべてがかかっている訴訟を遂行するために金が欲しい場合や、遠い国で生計の手段が自分を待っていて、そこに行くための費用が欲しいような場合などである。

このような場合には、金銭上のほんの少しの幸運や不運が、他の場合とはまったくちがった結果を生み出すかもしれないのである。」(P133)


上のような、お金には時期によって価値が違ったり、リスクやリターンがともなうという記述は、ユダヤ人の高利貸しを擁護したベンサムらしい。


「・・・金銭的な依存と愛情上の結合とは、まったく区別することができる・・・・」(P134)


「・・・あなたの敵に対する反感は、あなたの心の中に、その敵にとって反感の対象である人々に対する共感を、またその共感の対象である人々に対する反感を生みだすであろう・・・」(P135)


「悲しみと呼ばれる苦痛の種類の量については、実際上、外部的な現れによってはほとんどはかることはできない。

それは、たとえば涙の量や号泣している時間によってはかられるものではない。

もっとあいまいでない現われは脈搏であろう。

人間は自分の顔の筋肉を支配することはできても、自分の心臓を支配することはできない。」(P138)


うえの記述は「うそ発見器」の原理を思わせる。


「宗教はさまざまな形で、ある人の財産を減らし、その人の欠乏を増大させる。

宗教はときには自分の金で金もうけをすることを妨げ、ときには労働を妨げるであろう。

宗教はときには安い食物よりも高い食物を買うことを義務づけ、ときには不要の労働を買わせ、働きもしない人に金を払わせ、想像力だけが価値を付与するような、つまらないものを買わせ、またときには免罪符、すなわち来世の幸福のためのお守りを買わせるであろう。」(P143)


うえの記述は、形骸化した宗教が勤労や金もうけの邪魔になっているという批判にみえる。


ところで先に列挙した諸事情は、下記のとおりに快苦の計算に使われるという。


「したがって、立法者も裁判官も、自分の目の前に、一方では感受性に影響を与える若干の諸事情の目録を、他方では自分たちが利用しようと思う刑罰の種類と程度の目録をおいて、その二つの比較することによって、問題となっているそれぞれの事情の、それぞれの種類と程度の刑罰に対する影響を、詳細に測定しなければならない。」(P146)

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