アメリカ金持ち思想の源流を探る -2ページ目

8-5 快楽と苦痛の種類目録は何に使うのか?

『道徳および立法の諸原理序説』第5章(快楽と苦痛、その種類)でベンサムは、

人間性が感じうる単純な快楽(苦痛)は、次のようなもので、複合的な快楽(苦痛)を構成するという。

 

(1)感覚の快楽(感覚の苦痛)

 

(2)富の快楽(欠乏の苦痛)

(3)熟練の快楽(不器用の苦痛)

(4)親睦の快楽(敵意の苦痛)

(5)名声の快楽(悪名の苦痛)

(6)権力の快楽

(7)敬虔の快楽(敬虔の苦痛)

(8)慈愛の快楽(慈愛の苦痛)

(9)悪意の快楽(悪意の苦痛)

(10)記憶の快楽(記憶の苦痛)

(11)想像の快楽(想像の苦痛)

(12)期待の快楽(期待の苦痛)

(13)連想にもとづく快楽(連想にもとづく苦痛)

(14)解放の快楽

 

また、以上のような、さまざまな種類の快楽と苦痛は、以下のように法律の考慮にはいってくるという。

 

 

(犯罪の場合)

 

犯罪の害悪と、それを処罰する理由を構成するものは、それがある人々について、これらの快楽のうちのあるものを破壊し、またはこれらの苦痛のうちのあるものを生みだす傾向である。

それを達成することが犯罪の利益を構成しているものは、これらの快楽のうちのあるものを手に入れる見込み、またはこれらの苦痛の若干から免れる見込みである。

 

(犯罪者の処罰)

 

刑罰はこれらの苦痛の一つまたはそれ以上のものを生みだすことによってのみ、科せられることができる。


上記のようにベンサムは快楽(苦痛)の種類の目録を並べて、それらの項目を検討することで法律的な決定がなされるというのである。

犯罪の構成とその処罰がある程度計算(予測)できるということは、犯罪者の心理に影響して、その抑止につながるし、市民の精神的安定にもつながるであろう。

ベンサム的な考えが浸透した社会では、人々は生計が立てやすく、合理的な行動がとりやすくなる。

世の中、合理的な人間ばかりでないのはもちろんだが、そのような資本主義的な(特に英米系の?)人間にとって、ベンサム的な社会はより適応しやすい社会といえよう。

 

ちなみにアメリカでは、「快楽」と「苦痛」の概念を使って商売をするのが当たり前らしい。

 

下記の本(P135~136)には、次のような記述がある。

「セールスレターの勉強をした事がある人なら、『苦痛』と『快楽』のお話を知らない人はいませんね?

ここアメリカでは、この概念を駆使しない広告は、探すほうが大変です。

その意味で、この広告は、あなたの苦痛→それを解決する快楽→信頼できるプロの集団と、行動を促す要素をかなり備えている広告です。」

 

アメリカ発 インターネットで儲ける教科書

8-4 快楽はどのように計算されるのか?

『道徳および立法の諸原理序説』第4章(さまざまな快楽と苦痛の価値、その計算方法)でベンサムは、

快楽と苦痛の回避は、立法者が考慮しなければならない目的、手段であり、立法者はその価値(力)を理解しなければならず、ある人の快楽と苦痛の価値の大きさは、次の4つの事情にしたがうという。

(1)強さ

(2)持続性(長さ)

(3)確実性

(4)遠近性(早さ)

さらに、快楽と苦痛の(そのものの性質ではなく)価値を生む行為の傾向を評価する場合は、次の2つの事情を計算にいれなければならない。

(5)多産性(快楽の場合にはその他の諸快楽が、苦痛の場合にはその他の諸苦痛がともなう可能性)

(6)純粋性(快楽の場合には諸苦痛を、苦痛の場合には諸快楽をともなわない可能性)

一定数の人々については、もう一つの条件が加わる。

(7)範囲(それがおよぶ、またはそれによって影響を受ける人々の数)


上記のように各人や一定数の人々快苦の価値の大きさ等の事情(条件)を列挙した後、

ベンサムは、社会の利益が影響を受ける、ある行為の一般的な傾向の正確な計算は、次のように行われるという。


(1)その行為によって最初に生みだされるように思われる、おのおのの快楽の価値

(2)上記と同様の苦痛の価値

(3)その行為によって最初に生みだされる快楽または苦痛ののちに生みだされるように思われる、おのおのの快楽の価値

(4)上記と同様の苦痛の価値

(5)一方においてすべての快楽を、他方においてすべての苦痛を総計する。

もしも、その差し引きが快楽のほうに多いならば、それはその個人の利益について、その行為に全体としてよい傾向を与える。もしも、その差し引きが苦痛のほうに多いなら、それは全体として悪い傾向を与えるであろう。

(6)その利益が関係をもっているように思われる人々の人数を計算に入れて、以上の過程を各人についてくり返す。

その行為が全体としてよい傾向である各個人について、その行為がもつよい傾向の程度を示す人数を総計する。

その行為が全体としてよい傾向である各個人について、このことをくり返す。

また、その行為が全体として悪い傾向である各個人について、同じことを再びくり返す。

そして、差し引きしてみて、もしも差し引きが快楽のほうに多いならば、その行為は一般によい傾向をもち、苦痛のほうに多いならば、その行為は同じ社会について一般的に悪い傾向をもつであろう。


道徳的判断、立法上、司法上の活動に先だち、現実にとられる手続きが、上記のような手続きに近づくほど、その手続きは厳密な手続きに近づくという。


上記のようにベンサムは快楽と苦痛という主観的なものを、客観的な基準にもとづいて測定、計算しようとしている。

そして、このように科学的、客観的に快楽(幸福)が計測できることは、資本主義としては好都合で、

それこそ「金で心も買える」という福音を資本家に与えたのかもしれない。

当時としては画期的なアイデアであるとともに「神」や「金で買えない価値」を信じる宗教的な人々には特に危険であり、精神的な高さ、深みや感性がない浅薄で低俗な印象も与えた考えであろうと想像できる。


しかし、ベンサムはこの章で次のようにいう。

例えば財産や土地所有権に価値があるのは、それがある人に与える快楽(苦痛の回避)による。

その価値が所有の持続性(時間の長短)、確実性、遠近性に左右されていることは誰にでも理解されているが、ある人がその財産などから引き出される快楽の強さはそうではない。

快楽の強さ(と多産性、純粋性も)は財産をどのように利用するかにかかっているので、その特定の快楽(苦痛)がはっきりするまで評価できないからだ。


ベンサムは、ここで何を言いたいのか私にはよくわからないのだが、一応次のように理解してみた。

「ある物事(財産など)の快楽の強さ(および多産性、純粋性)は、持続性、確実性、遠近性と違って、事前に客観的には測定しがたい。

それは個々の事情により、主観的な感覚によって経験されることで明らかにされるので、事後的にしかわからない。

マルクスのいう価値(モノの金額といった客観的な量で表される価値)と使用価値(モノを使用したときに機能し、役立った具体的で質的な価値)に対応するとも考えられる。」


だとすると、ベンサムの量的、形式的に快楽を計算しようという試みは、「快楽の強さ」という質的、主観的な基準をその内に含むことによって、客観性の土台を失い、計算の厳密さを困難にしているといえるのではないか。

ただ、このような実測の困難性は、マルクス経済学の労働価値や近代経済学の効用価値についてもいえることであり、ここに自然科学が対象とするモノと異なるココロを扱う社会科学の限界もあるようだ。

ココロもモノのように扱えるかもしれないが、その動きは複雑で現代の心理学でも計測困難な未知の領域が多い。

もっとも現代自然科学でも不確定性原理や複雑系が示すように測定、予測が不可能なことはある。

しかし、完璧ではなくてもある程度の基準や条件を設けて、人の行動やココロを評価、測定することで、実生活のうえでは結構役に立つことも多いであろう。

そういう意味でベンサムの理論は実際的であるかもしれない。

8-3 政治の力は自然の力に従属するのか?

『道徳および立法の諸原理序説』第3章(苦痛と快楽との四つの制裁または源泉について)でベンサムは、


「快楽と苦痛とがそれから流れ出すことがつねである源泉には、四つの区別される源泉があり、それらは別々に考慮される場合には、物理的、政治的、道徳的および宗教的源泉と名づけられる。

そして、そのおのおのの源泉に属する快楽と苦痛とが、行為のなんらかの法則または基準に拘束力を与えることができるかぎり、それらはすべて制裁と名づけることができる。」(P109)

と述べている。


※ 制裁(サンクション)とは、個人の快楽を最大多数の最大幸福に一致させるよう外部から働きかける力のこと


「以上の四つの制裁のうち、物理的制裁こそが、政治的、道徳的制裁の基礎であり、現世に関係をもつかぎりにおいて、宗教的制裁の基礎でもあることが認められる。

物理的制裁は、他の三つの制裁の一つ一つの中に含まれている。

物理的制裁はどんな場合でも、〔それに属する快楽と苦痛のどれかが作用する場合にはいつでも〕それら(他の三つの制裁)とは独立に作用することができるが、それらのどれも、この物理的制裁によらなければ作用することはできない。


ひとことでいえば、自然の力は自分自身で作用することができるのであるが、自然の力をとおしてでなければ、官憲も人々全体も作用することはできないし、また神も、問題となっている場合に、作用すると想像されることはできないのである。」(P112)


上記の文章によってベンサムは、「物理的制裁=自然の力」すなわち自然科学の物理学が対象とするようなものを、他の三つの制裁の基礎に置いていることがわかる。

このような考えは、社会科学が自然科学の影響を受け、自然科学を基礎にし、お手本としていることの表れであるようにも思える。


「政治的官憲の活動の一つ一つについて、彼はこれらの二つの別個の力(道徳的制裁と宗教的制裁)によって援助または妨害を受けることが多く、彼はそのどちらか、または両方が、自分の敵または味方であると信じているのである。

彼がこのような力を計算外におくことがあるとすれば、ほとんど必ず結果においてまちがいを犯すであろう。・・・・」(P112)


上記の文章によってベンサムは、政治的制裁は、物理的制裁と対照的に、他の(三つの)制裁の影響を逃れない(最も自立的でない)制裁であると位置づけていることがわかる。


このような論理によって彼は、政治が世間の道徳や宗教を無視して、例えば専制といった形で横暴にふるまうことは、個人や社会の幸福を目的とする功利性の原理に反するとともに、あってはならないことだと政府や官僚らに戒めているのであろう。

この理論は、政治権力に縛りをかけ、国民の利益を優先している点で、ロックの理論と説明の仕方は異なるが共通の目的と効果をもっているといえよう。

8-2 偏った考えや感情的な考えはなぜ間違いか?

『道徳および立法の諸原理』第2章(功利性の原理に反する諸原理について)でベンサムは、

功利性の原理のほかに次の二つの原理があるという。

(1)禁欲主義の原理・・・功利性の原理と常に対立している

(2)共感と反感の原理・・・功利性の原理と対立する場合と対立しない場合がある


禁欲主義の原理は、

「・・・・・功利性の原理とは反対に、行為が当事者の幸福を減少させる傾向をもつかぎりにおいて是認し、それを増大させる傾向をもつかぎりにおいて否認するような原理を意味する。」(p89~90)


「・・・・・宗教家のあいだに禁欲主義の原理への執着が生じたのと同様の源泉から、その他の理論や実践が派生して、多くの不幸が生みだされたということは真実である。

たとえば、聖戦(十字軍などの宗教戦争)や、宗教上の迫害がその実例である。

しかし、このような場合には、不幸を生みだそうとする情熱は、ある特殊な理由によって起こったのであり、その実行は特定の種類の人々に限定され、彼らは人間としてではなく、異端者や不信心者として迫害されたのである。

同様の不幸を仲間の信心者や同じ派の人々に加えることはこれらの宗教家の目から見た場合でさえも、功利性の原理の加担者の目から見た場合と同様に、非難されなければならないことであったろう。・・・・」(P92)


上記のとおり、ベンサムからみても過去の蛮行である「十字軍などの宗教戦争」という不幸を生みだした禁欲主義の原理が批判されている。

現代のアメリカもイラクに対して聖戦を行ったが、これが未来において繰り返されるとは、ベンサムにとってまったく予想外であったに違いない。


「共感と反感の原理とは、ある行為を、その利益が問題となっている当事者の幸福を増大させる傾向や、その幸福を減少させる傾向によってではなく、単にある人がその行為を是認または否認したいと思うゆえに、是認または否認し、その是認や否認をそれ自体として十分な理由であると考えて、なんらかの外部的な理由を捜し求める必要を否定するような原理を意味する。」(P94)


「共感と反感の原理は、きびしさという点でもっとも誤りを犯しやすい。

その誤りとは、刑罰に値しない多くの場合にも、それが値する以上に刑罰を科したりすることである。」(P105)


上記のように、禁欲主義の原理に続いて、共感と反感の原理を批判した後、ベンサムは以下のとおり功利性の原理がもっとも行為を正しく評価し、コントロールする原理であるという。


「永続することのできる行為の唯一の正しい根拠は、けっきょっくのところ功利性の考慮である。

・・・・・反感や怨恨はそれが害悪を生み出さないように、つねに統制を受けなければならないが、何によって統制を受けるかといえば、いつでも功利性の原理の統制を受けなければならない。」(P108)


感情的ではなく、理性的、客観的、合理的に物事を判断すべきであるというのは、現代のわれわれにとってももっともなことであるし、ほぼベンサムのいうように(功利性の原理そのままではないにしても)、行政、裁判など法的諸制度は改革され、現代日本にも受け入れられている。

ただ、功利性の考慮に、感情的な価値判断などを一切含むことはないのかは、疑問であり、難しい問題だと思う。

現代の裁判などにおける法的判断にもその難しさは表れている。

現代人は、(少なくとも表面的には)より感情的ではなく、理性的になってきたと思うが、それは経済的な豊かさ、安定性とも関係があろう。

8-1 功利性の原理は危険思想であるのか?

『道徳および立法の諸原理序説』第1章(功利性の原理について)でベンサムは、

「自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配者のもとにおいてきた。

われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。

一方においては善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている。・・・」(P81)


と述べ、快苦が行動の原理となっているとともに、それが善悪の基準につながり、それが因果の連鎖のもとになっているという、シンプルな思想体系を説き始める。

そして、この功利性の原理という「思想体系の目的は、理性と法律の手段によって、幸福の構造を生み出すことである」(P82)という。


「・・・功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、・・・・・その幸福を促進するように見えるか、それともその幸福に対立するように見えるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。

・・・・それは一個人のすべての行為だけではなく、政府のすべての政策を含むのである。」(P82)


「功利性とは、ある対象の性質であって、それによってその対象が、その利益が考慮されている当事者に、利益、便宜、快楽、善、または幸福を生みだし、または、危害、苦痛、害悪または不幸が起こることを防止する傾向をもつものを意味する。

ここでいう幸福とは、当事者が社会全体である場合には、社会の幸福のことであり、特定の個人である場合には、その個人の幸福のことである。」(P83)


「社会の利益とはなんであろうか。それは社会を構成している個々の成員の利益の総計にほかならない。

・・・・・あることが、ある個人の快楽の総計を増大させる傾向をもつ場合、または同じことになるのであるが、その個人の苦痛の総計を減少させる傾向をもつ場合には、その個人の利益を促進する、またはその利益に役だつといわれるのである。」(P83)


上記のとおり、功利性の原理とその目的、功利性、幸福、社会の利益、個人の利益が何であるかを説明した後、ベンサムは次のように述べ、結局、功利性の原理はきわめて社会的、公共的な利益を主張するものであることを示している。


「したがって、ある行為が社会の幸福を増大させる傾向が、それを減少させる傾向よりも大きい場合には、その行為は〔社会全体について〕功利性の原理に、短くいえば功利性に適合しているということができる。」(P83~84)


しかし、この時代、この原理を認める人は少なく、危険とみなす人さえいるとベンサムは記している。


「功利性の原理をどのように適用するかということを、いつでも理解しているわけではないために、また、それを検討することがこわかったり、それから離れることがたえられないような、なんらかの偏見のために、ある場合に功利性の原理に対立した覚えがないような人々は、なおさら数少ないであろう。

人間とはそんなものなのである。・・・・・」(P85)


「・・・・この原理は、一人の支配者をも含む、このようなすべての官僚の利益―悪意ある利害―にとって危険である。・・・・」(P86)

としており、ロックが専制を厳しく非難したようにベンサムも反体制的な姿勢を示している。

権威主義的な圧制を嫌い、政府の政策が社会の個々人に利益になるよう求める精神は、ロックとベンサムは共通しており、ベンサムは、政府に対抗するための理論武装を新たにしたといえるのかもしれない。


功利主義は、実利性を重んじる英米系の思想として典型的にみえる。

アメリカでは、この思想に影響されて行動とその効果を重んじるプラグマティズムという思想も生まれている。

ベンサム流のメリットとデメリットを比較する手法や倫理観念は、法律理論をうまく体系化すると同時に経済学や損得勘定を重視する商人にも適合するものであろう。

8 法律の科学化は困難な挑戦であったのか?

『道徳および立法の諸原理』序章でベンサムは、

「悟性の論理学と同様に、意志の論理学がある、むしろなければならないといったほうがよいであろう。

意志のはたらきは悟性のはたらきに劣らず、法則によって記述されることができるし、またそのように記述される価値がある。」(世界の名著49「ベンサム、J.S.ミル」P79)

と述べている。

 

マックスウェーバーは、「学問は政策とは違って、事実を客観的に認識するものであり、価値判断から中立でなければならない」というようなことを言っていたと思うが、ベンサムは、悟性(事実)の論理学と、意志(価値判断)の論理学を分け、後者の重要性を強調した。

 

アリストテレス以来の論理学者は前者しか見なかったが、重要性の点では後者のほうがまさっているというのだ。

 

「なぜならば、悟性のはたらきがなんらかの影響力をもつことができるのは、ただ意志のはたらきを方向付ける能力によるからである。」(同P79)

 

というが、この文章もマルクスが「今までの哲学は世界を解釈しただけだが、これからの哲学は世界を変える」といったようなことを言っていたのを思い出させる。

 

「その形式において考察された法律の科学は、このような意志の論理学のもっとも注目すべき部門、すなわちもっとも重要な応用である。

 

解剖学が医学に対して果たす役割を、法律の科学は立法の技術に対して果たすのである。

・・・・法律の科学に通じていないことが、国家にとって危険であるのは、医学について無知であることが人体にとって危険であるのと全く同様である。

・・・・困難な問題とは以上のようなことであり、本書はその解決への下準備にほかならないのである。

それは前例のない仕事であり、新しい科学をつくりだすことである。

それは科学のうちでももっとも難解なものの一つに、新しい部門を付け加えることである。」(同P79~80)

 

という文章で、法律や立法について科学にしようという新たな挑戦への決意とその成果に対する自負を感じさせる。

 

法律と科学の関係は現代においてもどうなっているのか私はわからない。

川島武宣氏の「科学としての法律学とその発展」などの著作や法哲学関係の本を昔ちょっと読んだが、自然科学のような理論化は難しいようだ。

しかし、ベンサムが功利主義の原理によって、法律学ほか経済学などの社会科学全般の理論的発展に多大な貢献をしたのは間違いないであろう。

彼は、また法律を科学にするため次のようなことが必要だとしている。

 

「・・・・政治科学と道徳科学の基礎をなす心理は数学的研究のようにきびしく、比較を絶するほど精密で包括的な研究によらないかぎりは、発見されることはできない・・・・・。」(同P80~81)

 

川島 武宜

「科学としての法律学」とその発展

7 ベンサムの自由主義

ベンサムは政治経済的な自由主義を功利主義という原理で科学的、理論的に一貫させた。

これは、自由主義社会の政治、法律、経済の論理性、合理性、効率性を一層推進するものでもあった。

ベンサム自身は、「最大多数の最大幸福」の実現を願う人道的な精神にあふれた人であったが、彼の理論は、ときとして、客観的で冷たい印象を与えるものであったかもしれない。

マルクスは彼を「俗物の元祖」であり、「ブルジョワ的愚昧の天才」と酷評しているが、一方でベンサムの理論は社会主義思想の発展に大きく寄与したという評価もある。


ベンサムの代表作として、定評があるのは『道徳及び立法の諸原理序説』(1789年出版)といわれている。

以下にその目次を載せる。


序言

第1章 功利性の原理について

第2章 功利性の原理に反する諸原理について

第3章 苦痛と快楽との四つの制裁または源泉について

第4章 さまざまな快楽と苦痛の価値、その計算方法

第5章 快楽と苦痛、その種類

第6章 感受性に影響を与える諸事情について

第7章 人間の行為一般について

第8章 意図について

第9章 意識について

第10章 動機について

第11章 人間の気質一般について

第12章 悪行為の諸結果について

第13章 刑罰に相当しない場合

第14章 刑罰と犯罪との均衡について

第15章 刑罰に与えられなければならない諸性質について

第16章 犯罪の分類

第17章 法学の刑法部門の限界について


ここに出てくるようなベンサムの理論は、資本主義社会における企業の利益の追求や金儲けの際、科学的な道徳観によって宗教的な罪悪感を減らすという効果ももたらしたように思える。

そのような観点を交えながら、次回から具体的にこの著作を見ていきたい。


(参考図書)

世界の名著49「ベンサム、J.S.ミル」 責任編集 関嘉彦 中央公論社






6 ベンサム思想のアメリカ・金持ち・ユダヤ人との関係は何か?

前回までロック思想について、そのアメリカ、金持ち・ユダヤ人との関係などを見てきたが、今後しばらくは、ベンサムの思想についても同様の関係などを見ていきたい。

 

まず、アメリカでベンサム思想はどんな位置づけであるか見てみたい。

 

「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」(副島隆彦著)によれば、前回も記述したように現代アメリカの法哲学・法思想(政治思想)には大きな四つの対立軸があるが、その一つであるポジティブ・ロー(ベンサマイト=リバータリアン)派がベンサム思想に基づくものである。

同著から以下にポジティブ・ロー派について解説している部分を引用する。

 

『・・・ベンサムは、ロックの自然権をも批判した。生命・身体・財産の自由は人間が生まれながらにもつ固有の権利であるとする「自然権」に対して、そんなものは「竹馬の上にくくり付けられたタワ言だ」だと言い放った。

 

ベンサムは自分が打ちたてた重要な哲学原理である「功利主義」に従う。

功利主義とは、「人間は快楽・幸福を求め、苦痛を避けようと行動する生き物である」という原理であり、この大原理の下に、人間社会は「最大多数の最大幸福」の原理に従って成り立っているとした。

「功利主義」は、現在も生きている人類史上の大思想のひとつであり、ソシアル・サイエンスの土台である。

ベンサムの立場からは、したがって、「法は人間が定めるのであり、何が正しくて、何が公平であるかは、すべてこの地上の現実の人間たちがよくよく議論して決めることであって、予め神や自然の摂理が決めるのではない」となる。

このベンサムの功利主義思想を、法思想分野に限ったとき、まさしく「リーガル・ポジティヴィズム」となるのである。

そこで私は、このlegal positivismを従来のように「法実証主義」とせずに、訳語を改めて「法人定主義」とするべきだと前述した。』(P227~228)

 

次に、ベンサムと金持ちやユダヤ人との関係はどうであろうか。

 

「金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ」(副島隆彦編著)の7ユダヤの商法を擁護したベンサムの思想(根尾知史)によれば、ベンサムはユダヤ人に同情的で、彼らの金儲けの武器であり、キリスト教徒から非難されていた高利貸しの正当性や、ユダヤ移民の貧民の改善方策などについて主張していたという。

 

また同書で、ベンサムと同時代に活躍したユダヤ人ロスチャイルドについて、次のように記述している点に注目したい。

 

「自らを守るための武器として、お金の有効性を最大限に生かす戦術に、たとえば、「投機」がある。

この金が金を生む仕組みを使った「レバレッジ(テコの作用)」により、政治的な権威に対しても、大きな力、経済的な政治力を持つことができるのだ。

このテコを驚異的に活用して世界の経済を牛耳るまでに飛躍させたのが、ロスチャイルドのロンドン分家の創業者二代目のネイサン・ロスチャイルド卿(1777-1836)である。

彼が、ベンサムと同時代に活躍していたことも、興味深い事実である。」(P182~183)

 

私は以前から、ベンサムと、そして彼の理論を哲学的急進派という運動に展開させたジェイムズ・ミル、その息子で功利主義の後継者であるジョン・スチュアート・ミルがどこから現れて、なぜイギリスの政治経済の改革を推し進める影響力を持つに至ったかに疑いをもっていた。

 

もちろん彼らの理論、学説は優れているのだが、政治運動を展開するには大きな資金力が必要だったのではないかという疑問があったのである。

だから、上記の文を読んだとき、「やっぱりユダヤ人(ロスチャイルド)の資金が関係しているのではなかろうか」と感じたのである。

もちろんその証拠となるような資料は、思いつく範囲で調べてみたが、確かなものはなかったので、こんなことを書いてもバカにされるだけかもしれない(ちなみに「ジェイムズ・ミル」(山下重一著)は哲学的急進派の背景について知るための参考になった・・・スコットランドが怪しい?)。

しかし、もし、読者の中に詳しい方がいて、この辺りの事実関係について何かご存知でしたら教えてください。

 

5 ロックはアメリカでどのような立場にあるか?

イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、「西洋哲学史3」(第15章ロックの影響)P634で、次のように述べている。

 

「・・・さまざまな観念はいたるところで、外部的な諸状況とその諸状況の人間の感情への反映によって、支配されてきたのである。

 

実際にそうであることは、一つの著しい事実によって明白にすることができよう。

すなわちアメリカでは、自由主義という観念はその種の発展をぜんぜん経ていないのであり、そこではその観念は、ロックの場合と同じ姿で現在にいたっているのである。」

 

ラッセルによると、ロック以後の自由主義の観念は論理的段階をたどって変化しており、例えばドイツで、カントやニーチェなどを経て、ヒットラーにまで発展するような柔心型もあれば、ベンサムやマルクスなどを経てスターリンにまで発展した冷静型といえるものもあるという。

 

にもかかわらず、アメリカは現在も自由主義の観念をロックの時から特に発展もせずに持っていると言っているのである。

 

それでは、現代のアメリカで、ロック思想の位置づけはどうなっているのだろうか。

 

私は勉強不足で、それを理解する資料はあまり目にしたことはないが、副島隆彦著の「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」に大づかみの説明がある。

この本(P246参照)によれば、アメリカの法哲学・法思想(政治思想)の対立軸の背景として、大きくは次のような四つの対立軸があるという。

①ナチュラル・ロー(バーキアン)派、②ナチュラル・ライツ(ロッキアン)派、③ヒューマン・ライツ(リベラル)派、④ポジティブ・ロー(ベンサマイト=リバータリアン)派の四つである。

そして、②がロックの自然権の思想に基づくものだという。

 

まさに、アメリカにおいてはロックは現代政治思想においても本流を形作っている根幹の一つであることがうかがえる。

 

 

4-19 立法権の最終的な権利はだれにあるか?

『統治論』第19章(統治の解体について)でロックは、この最終章において、次の文で締めくくる。


「結論を述べよう。

各個人が社会に入ったときに社会に委ねた権力は、社会が存続するかぎりは個人の手には決して二度ともどらず、つねに共同社会のうちにとどまる。

なぜなら、もしそうでなければ、共同社会も国家もありえず、それでは最初の合意に反するからである。


またそれと同じく、社会が立法権を人々の何らかの集会に委ね、それが彼らとその後継者の手中に引き続き置かれるように定め、かつまた、そのような後継者を任命するための指導権と権威をその集会に与えた場合は、その統治が存続するかぎりは、立法権は決して国民にもどりえない。

なぜなら、国民は立法部の手に永久に存続する権力を与えてしまった以上、自分たちの政治的権力を立法部に委ねてしまったのであり、それを取りもどすことはできないからである。


しかし、もし国民がその立法部の存続期間に制限を設け、個人または集会に委ねられるこの至高の権力を単なる一時的なものとした場合とか、あるいはまた権限を握っている人々の失政によってこの権力が失われる場合には、支配者のこの権力喪失か、あるいは定められた期間の終了によって、この最高の権力は社会の手にもどる。


そして、国民は至高の存在として行動する権利をもち、立法権を自分たちの手の中にもち続けるか、あるいは新しい統治の形態を樹立するか、あるいはまた、古い統治の形態のまま立法権を新しい人々の手に委ねるか、自分たちがよいと思うところに従って決定する権利をもつのである。」(P346)


以上の文で『統治論』は終了する。

権力者といえども国民の意志なくしては、存続できないという民主主義の原理をロックは打ち立てた。

なお、この章に書かれているのだが、権力者は国民の権利を侵害することで、その権力は失われるという説は、当時すでにバークレィ、ビルスン、ブラクトン、フォーテスキュー、フッカーといった人々にも論じられていたようだ。


ロックがこの著作で1689年に民主主義という政治形態の原理を明確にしてから300年以上を経ているが、イギリスをはじめとしてアメリカ、日本も含め、今でも近代以降の多くの国々はこの原理に基づいて政治を運営している。

もちろんその後、様々な経験や学説によってロックの説に批判や変更が加えられているであろうが、今読んでみても原理的な部分は、そのまま現代政治に生きている。


例えば徳川幕府の体制がもし欧米から攻撃を受けていなかったら、今でも続いていたであろうか。

それはありえたかもしれないが、もし外国との交流、貿易というものが必要不可欠なものであるなら、遅かれ早かれこの民主主義は受け入れざるを得なかったのではないだろうか。

つまり、この体制は自由経済(貿易)にとても適応した体制だと思われるからだ。

ロックはフランスやオランダに渡って国際的に活動していたが、この自由や所有を重んじる彼の理論はそもそも資本主義と相性がよいのだと思う。

ただ経済成長の著しい中国は、資本主義化しているが民主主義ではない。いつまで民主化しないでいられるのか、今後の進展が興味深い。

しかし、新製品や新サービスは、民主主義のように自由と所有が尊重されている社会のほうが、より生まれやすいことは歴史が証明している。


今日も書きすぎてしまった。今日はこれまでとします。