4-18 統治者にとって最も危険な状態とは?
『統治論』第18章(専制について)でロックは、冒頭で、前章のテーマ「簒奪」に関連して、次のように述べている。
「簒奪とは、他人に権利がある権力を奪ってこれを行使することであるように、専制とは、権利をこえて権力を行使することであり、だれにもこのようなことをする権利はない。
そしてこの専制とは、人がその手中に握る権力を、その支配下にある人々の福祉のためにではなく、自分自身の私的な単独の利益のために利用することなのである。・・・・」(P318)
なお、この意見の趣旨は、国王ジェイムズ一世が議会への演説(1603年と1609年)でも述べていることなので、単にロックの個人的で曖昧な意見ではないと主張している。
そして、もし専制によって国民に害が及べば、その政権はどうなるのか?
ロックは次のように考える。
「しかし、もしこれらの不法行為が国民の大多数におよぶ場合とか、あるいは危害や抑圧が少数の人にしかふりかからなくても、先例や結果からみて、これがすべての人の脅威になると感じられるような事態が起こり、そこで国民が、自分たちの法も、またそれとともに自分たちの資産、自由、生命も、さらにおそらくは自分たちの宗教も、危機にひんしていると良心に顧みて確信するようになった場合に、国民が自分たちに向かって加えられる不法な暴力に抵抗するのを、どうやったら阻止できるというのであろうか、私には言明できない・・・・。」(P324)
言明できないくらい、恐ろしい結果(国民の強い抵抗)が起こるだろうというのだ。
「・・・・これは統治者が陥る可能性のある、最も危険な状態である。この場合、そのような状態は、はじめから避けようと思えばきわめて容易に避けられたことなのだから、そういう統治者には、それだけ憐れむべき点もすくないわけである。・・・・」(P324)
と、愚かな統治者に対して同情の余地はないと手厳しい。
(この時代こんなことをズバズバ言ったら、権力者に捕まるのがこわくて国内にはいられなかったのだろう。それでもこの本が書かれて、今も残っているのは、ブルジョワ勢力が強くなり、大衆を味方につけるためにも必要だったからであろう)
また、以下のロックの文章は、小泉が、人事や911選挙などで見せた反対派議員に対する排除や、(アメリカのネオコンにも共通する)ごまかしによって強行された政策(自衛隊派遣その他)を正当化するような政治に対する批判にもなっているように見える。
「しかし、もし君主の言葉と実際の行動が別のものであること、そして法の網をくぐる術策が講ぜられ、国王の大権〔これは、国民に危害を与えるためにではなく、福祉を与えるために若干の事柄を行う気ままな権力であり、君主の手中に託されたものである〕という信託物が、その当初の目的に反することに行使されていることが世間に知れわたるとしよう。
また、そういう目的にかなうように大臣や下級の為政者が選ばれ、これらの者がそのような目的を促進するか、これに逆らうかに応じて、優遇されたり免職されたりしていることに国民が気づくとしよう。
そしてまた、権力が勝手気ままに実際に何回か行使され、こういう権力を導き入れるのに最も好都合な宗教がひそかに恩恵を受け〔公にはこれを禁ずる声明が出されていても〕、気ままな支配の実現をたくらむ策士どもができうるかぎりの支持を受け、また支持を受けることができないときでも、やはり賛意を寄せられ、ますます喜んで迎えられていることを国民が見るとしよう。
そして、一連の行動に照らして、枢密院がすべてその方向をたどっていることが明らかとなるとしよう。
事ここにいたれば、人はもはや何に妨げられることもなく、事態がどのように進みつつあるかをわが心に思い知り、また、自分自身を救うためにはいかになすべきかを思案しないではいられないだろう。・・・・」(P324-325)
4-17 政権の簒奪はいかに正当化されるか?
『統治論』第17章(簒奪について)でロックは、
「征服を外国からの簒奪と呼んでよいように、簒奪とは一種の国内での征服といえる。
ただそこには、簒奪者は自分の側に正当な権利を決してもちえないという相違はある。」
「また、このような簒奪者やその後継者は、彼がすでに横取りしていた権力に、国民が同意する自由をもつとともに、また実際に容認する同意を与えてこれを確認するまでは、支配者たる資格をもたないのである。」(P317)
と述べている。
国内での征服者としての簒奪者は、共同社会の法で定められた以外の方法で権力を行使し、国民が同意しなければ、国民を服従させる権利はないというのである。
簒奪の話が出てくるのは、やや唐突な感があるが、これはおそらく、革命によって政権が変わった場合の正当性はどうなのかを明らかにしようとしているのであろう。
この時代のブルジョワ革命(王政から議会制民主政、名誉革命)の正当性について語ろうとしているのであろう。
新政権といえば、現在イラクの新統治においても民主主義の教育がなされているようだ。
新政府は国民の支持を得ているのか。法に基づいているのか。
簒奪者(アメリカの傀儡?)の統治の正当性は、一見ロックの理屈に強引に合わせているようにみえる。
しかし、ロックに従えば、その正当性を最終的に判定するのは、イラク国民であるはずである。
4-16 人道主義は現実的ではありえないのか?
『統治論』第16章(征服について)でロックは、この章を次のように要約している。
「征服者は、もし彼のほうに正当な理由があるとすれば、実際に彼に対する抗戦を援助し、これに協力した人々すべての身体に対して専制的な権力をもち、右のもの以外の人々の権利を侵害しないかぎり、彼らの労働と資産から彼の損失と費用を償う権利をもつ。
右の者以外の人々、つまり、戦争に同意しなかった人々や、捕虜の子供たちに対しても、あるいは両者いずれの所有物に対しても、征服者は何の権利ももたない。
したがって、征服によっては、彼らに対する支配の合法的な資格をもつこともできないし、それを彼の子孫に伝えることもできない。
もし、征服者がそういう人々の所有権を奪おうとし、それによってこれらの人々と戦争の状態に入るなら、彼のほうが侵略者となる。」(P316)
ロックは、上記の学説が「世界中の慣行に全く反する」奇妙な説だと自ら認めながら、(P307)
戦争に負けた人間からは、損害賠償を得られるが、それ以上の所有物を求めることはできないし、彼らの妻子からは何の権利も奪えないという。
そうでなければ、自分たちが正当である戦争であったとしても、結果的に侵略者となるからであるという。
なかなか人道的で平和的な説である。ロックが生命、自由、財産の権利を戦争相手の人々にも最大限認めようとしていることがわかる。
ロックが平和的であることは、資産家たちが平和的であるのと同じであろう。
ただ、資産家もまた「死の商人」として戦争を求めるのかもしれない。
いずれにしても、ロックの説の影響下にあるはずのアメリカは、たびたび行っている戦争において、このルールの一線を越え、兵士以外の者への無差別な攻撃や殺人を行っていることは、きわめて遺憾である。
ロックの平和主義は、現実主義の前では現代においても理想主義にすぎないのだろうか。
4-15 どんな権力が正当な権力なのか?
『統治論』第15章(父権、政治的権力、および専制権力の同時的考察)でロックは、
今まで別個に述べてきた父権、政治的権力、専制権力というそれぞれの権力を同時に考察している。
これらの権力を混同することで、統治についての大きな誤謬が生まれるからである。
「以上の三権力のそれぞれの発生、範囲、目的の違いを考察してみると、父権は為政者の権力にははるかにおよばず、また専制権力は為政者の権力をこえていることが明らかとなろう。
さらに、絶対的な支配はどこに置かれても、市民社会の一種であるどころではなく、ちょうど奴隷の状態と財産の所有ということが両立しないのと同様に、これらの二者が両立しないことは明らかである。
父権は、未成年のために子供が自分の所有物を処理することができない場合のみ存在する。
政治的権力は、人々が自分自身で自由に処分できる所有物をもつ場合に存在する。
そして専制権力は、全く所有物をもたない人々に対して存在するのである。」(P302)
という文章でこの章はまとめられている。
これを以下にちょっと公式的に書いてみる。(あまり意味はないが、わかりやすくなるかもしれないから)
・ 父権<為政者の権力<専制権力
・ (絶対的な支配≠市民社会の一種)=(奴隷の状態≠財産の所有)
→(絶対的な支配=奴隷の状態)≠(市民社会の一種=財産の所有)
① 父権の存在=子供が未成年で自分の所有物を処理できない場合
② 政治的権力の存在=人々が自分で自由に処分できる所有物をもつ場合
③ 専制権力の存在=被支配者の人々が全く所有物をもたない場合
このことから、為政者の権力こそがロックの求める政治的権力であって、それは父権や専制権力とは全く異なるものであるということがわかる。
このような論理構成で巧みに父権や専制権力の正当化を否定し、所有権を認める自由主義の政権の妥当性を主張していることがわかる。
4-14 国王の大権は両刃の剣か?
『統治論』第14章(国王の大権について)でロックは、
国王の大権とは、「公共の福祉のためには、法の指図をまたずに、また時としてはそれに背いてまでも、自分の分別に従って行動するこの権力・・・・」(P294)のことだという。
国王の大権は、行政権をもったものが、法で捕らえきれないような事柄について、自由裁量によって行使できる権力のことである。しかし、権力者が賢明であれば、国民はそれを黙って認めるけれど、愚鈍な君主であれば、国民は不利益を被ってしまうという。
この国王の大権をもった行政権に対し、立法部はそれが正しいかどうか裁く力がない(地上の裁判官はありえない)という。
「これはちょうど、行政部、あるいは立法部がその手中に権力を握ってしまって国民の奴隷化や殺傷を企てるとか、それに着手しようとする場合に、立法部と国民との間に裁判官がありえないのと同様である。
この場合国民は、地上に裁判官のいないその他すべての場合と同様に、天に訴える以外に方策はない」(P298)
「しかしながら、行政権、あるいは賢明な君主ならば、このような危険を犯す必要はけっしてない。
これは、すべての事柄のうちで、彼らにとって最も危険な事柄であるから、何よりもこれを避けることが必要なのである。」(P299)
と述べてロックは、君主の権力が暴走することにクギを刺し、
「できるものならやってみろ、国民は横暴や愚かな政策には天に訴えて国を混乱させるぞ」
と遠まわしに脅しをかけているのだ。
これが、抵抗権、革命権の考えにつながっていくのであろう。
淡々と冷静な口調で述べられているが、その内容は、なかなか過激である。
ここにブルジョワたちの政権獲得への確信や決意が込められていると見るべきであろうか。
4-13 旧体制をぶっこわす改革はなぜ必要か?
『統治論』第13章(国家の諸権力の従属関係について)でロックは、
立法権は行政権その他の権力に比べ最高の権力であり、
法が絶対であり、法を執行する行政権などは、立法に比べると従属的な権力だという。
日本国憲法14条でも「国会は国権の最高機関」としている。
このほか、行政者が権利を要求しうるのは法の力を与えられた公人としてのみであること、
立法部は召集期間が限られるが、行政者(公務員)は常時存在する必要があること、
立法部の集会や選挙について、定例の場合と、緊急の必要から行政者が新たな選挙によって決める場合があること、
地方の代表者の数は、人口や富など地域の状況にあわせてバランスをとらなければ不平等であること、
などなど現在の憲法などで定められているような細々とした取り決めなどについても述べられている。
この辺を読んでも、まったく、今の政治体制の原則のほとんどは、このころ既に考案されていたとわかる。
「おそらく(政治の)腐敗や(都市の)衰微から導き出されたと思われる、現状の変革は、別に統治に対する侵害にはならない。
侵害になるのはむしろ、国民に危害や圧迫を加え、一部または一派の人々を擁立して他の人々との間に差別を設け、これに不平等な服従を強いる傾向である。」(P293)
という文章は、現代政治においても叫ばれている「改革!」アピールの原型であろう。
この時代の方がラディカル(急進的)で過激であったのであろうが・・・。
4-12 なぜアメリカは国連を無視するのか?
『統治論』第12章(国家の立法権、行政権、および連合権について)では、
権力の濫用を防ぐため、立法権と行政権は分けるべきとしている。
そして、立法権については、
「すなわち彼らは、適宜、集会を開き、彼らだけで、あるいは他の人々と共同で法をつくる権力をもつが、法をつくってしまえばふたたび解散し、自分たちがつくった法に服従することになる。」(P284)
と述べ、現代の議会制と同様なルールであるべきとしている。
もう一つの権力として、ロックは連合権を挙げる。
「したがって、その社会の成員であるだれかと、その社会外のだれかとの間に紛争が起これば、それはその社会の公共の問題として取り扱われ、その集団の一員に危害が加えられれば、集団全体がその報復にあたる。
だから、このように考えてみると、共同社会全体は、その共同社会の外にある他のすべての国家や人々に対しては、自然の状態における一集団であるわけである。
したがってこの権力は、戦争と講和の権力、同盟と条約の権力、さらに、その国家の外のすべての個人や共同社会を相手にいっさいの交渉を行う権力を含むものであり、もしそう呼びたければ、連合権と呼んでもよいであろう。・・・・・」(P284)
連合権とは今で言えば、内政に対する「外交」についての権力のことであろう。
注目されるのは、上記の文章の中で、ロックは「国同士は、互いに(国内法が及ばない)自然状態で、紛争が起きれば国家として報復する」という態度を明確にしていることだ。
第1次世界大戦前、イギリスの文明批評家H.Gウェルズ(宇宙戦争などを書いたSF作家でもある)は、国際連合に期待し、その後失望したという。
また、イギリスの経済学者ケインズも第2次大戦末期にブレトンウッズ体制を決めた会議で、世界通貨を主張したが、アメリカにドル基軸体制にするよう押し切られ、失望し、間もなく死亡した。
何がいいたいかというと、ロックの17世紀の思想は、今でも現代のアメリカの対外政策そのままだということである。
ウェルズやケインズのような(日本人では新渡戸稲造が国際連盟事務次長として活躍している)、国家間の自然状態を解消しようという、きわめて真っ当な理想は、古くさいロックの思想そのままのアメリカの政策によって実現が阻まれてきているということだ(周知のとおり、アメリカは現在も国連を軽視している)。
アメリカはロックという亡霊に逆らうことができないのだろうか?
そのほかに印象に残ったのが次の文章だ。
「したがって、連合権が公共の福祉に役立つように運用されるには、この権力を握っている人々の思慮分別と叡智にぜひとも任せられなくてはならないのである。・・・
というのは・・・・外国人に関して行われるべきことは、外国人の行動や意図と利害の変化に左右されるところが大きいゆえ、大筋のところでは、この権力を委ねられた人々の思慮分別に任されねばならず、かれらの最善の手腕をもって国家の利益になるよう運営されていくのである。」(P285)
この文章で思い出されるのは、ビスマルク、チャーチルなどの外交天才である。
最後にもう一つ印象的な文章を引用する。
「・・・行政権(内政)と連合権(外交)とが別々に行動しうる人々に委ねられることは、ほとんど実行できないこと・・・。
もしそうなれば、公共の力は別々の指揮下に置かれることになり、早晩、無秩序と破滅を引き起こすことになりかねないであろう。」(P285)
これは、敵国を攻めるべき軍部などが、国内で暴走したり、クーデターを起こしたりすることなどの恐れを指すのだろうか。であれば、シビリアンコントロール(文民統制)も併せて政治体制には大事な原則だと(私がロックに)補足しておこう。
4-11 指揮官の命令で財産まで奪うことはできるのか?
『統治論』第11章(立法権の範囲について)の要旨は、ロックが章の最後で要約しているように、次の4点である。
1 立法部は公布され確立された法によって支配すべきであり、個々の場合に応じて異なった支配をすべきでなく、金持ちにも貧乏人にも、また宮廷の寵臣にも農耕に従事する田舎の者にも、同一の支配を行うべきである。
2 これらの法は、究極的には国民の福祉以外のいかなる他の目的のためにも立案されてはならない。
3 立法部は、国民が、彼ら自身あるいはその代表者をつうじて同意を与えるのでなければ、国民の所有物の上に税を課してはならない。
4 立法部は法を作成する権力を他のいかなる者にも委譲してはならないし、また委譲することもできない。
上記1において、「金持ちにも貧乏人にも同一の支配を行うべき」としているが、ロックの所有権に対する執着は、同章の次のような文章(の守銭奴のような言い回し)で強調され、「特に金持ちこそ法によって厳格に資産が保護されるべきだ」と言いたいかのようである。
「また、将軍は、兵士が任務を放棄したとき、あるいは、ほとんど生還の見込みのない命令でもこれに服従しないときには、この兵士を死刑に処することはできるけれども、彼はこのような生殺与奪の絶対権力のすべてを用いても、その兵士からはびた一文、勝手に処分できないし、その財産のひとかけらでも奪い取ることはできないのである」(P282)
「しかし、立法権が常時存在するただ一つの永続的な集会のうちにあるとか、あるいは絶対君主制のようにただ一人の人間の手中にある統治では、やはり危険がある。
すなわち、彼らは同じ共同社会の他の人々とは別個の利害を持つと考え、彼らが適当と思うものを国民から取り上げて、彼ら自身の富と権力を肥やそうとしがちなのである。」(P281)
上記の文章は、資産をもったユダヤ人が、被差別人種として扱われ、いざというときに権力者に財産を奪われた歴史をも思わせる。
(副島隆彦編著「金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ」P181参照)
このほか、この章で印象的であった文として次の2点だけ挙げておきたい。
1 「自然の法とは神の意志の表明だからである」(P277)
ここでいう神とは当然、キリスト教及びユダヤ教の神であろう。ロックのいう自然法は西欧文明における宗教に基づいていることを明白にしている。
このような宗教的な土台をもとに(ロックの)自由主義(民主主義、資本主義)の思想が作られていることを、日本人は改めてよくよく認識しておかなければ、いわゆる世界基準といわれている制度や、自分たちの政体(形式的には自由主義)すら本質的に何ら理解していないことになるのではないか。
2 「ところが、彼ら(国民)が自分たちの身を立法者の絶対的で勝手気ままな権力や意志に委ねたとすれば、彼らはみずから武装を解いて立法者に武器を与え、立法者の好むときに自分たちを餌食にするようにしてしまったことになる。」(P279)
この文の「立法者」を「アメリカ」、「彼ら」を「日本」に置き換えると、まるで現代の日米関係を表しているように思えるのだ。
4-10 共同社会の形にはいろいろな組合せがありえるのか?
『統治論』第10章(国家の諸形態について)では、
共同社会には、多数派が権力をもつ民主制、少数の選ばれた人に立法権が委ねられている寡頭制、一人の人間に委ねられている君主制があるという。
君主制には、相続される世襲君主制と、一代のみで彼の死後は後継者を指名する権力だけは多数派の手に戻るようにする選挙君主制(大統領制がそうかと思うが、私は政治学の専門家でもないので正確にはわからない)があるという。
そして、以上の諸形態を用いて適当に複合、混合した統治の諸形態をつくることができる。
「もし立法権が、最初多数派によって、一人あるいはそれ以上の人々の手に、一代かぎりとか、あるいは期限を切って与えられ、ついで期限がくれば、その最高権はふたたび多数派の人々の手にもどるようにしておけば、それがもどってきたときには、共同社会は、ふたたび新たにそれを適当な人の手に委ねて、新しい統治の形態を構成することができる。」(P274)
この文章は、一見民主主義の選挙による政権交代を意味するように見えるが、よく読むと、民主制だけでなく、寡頭制や君主制などのさまざまな国家形態を共同社会(国民)はつくることができると言っているようだ。
確かにロックの時代は、(イギリスだけでなくフランスもそうなるが)王政と民主制の交代が革命などによって、激しく変わる時代だったから、政体が必ずしも民主制であるとは考えていなかったのだろう。
また、ここでロックは独立の共同社会のことを、「コモンウェルス」という語で表したいそうだ。
これは、民主制とかその他の統治の形態のことではなく、ラテン人がキヴィタスという言葉であらわした語だという。
これは英語の共同社会(コミュニティ)や都市(シティ)では表現できない、一種の共同社会を最も適切に表現しているのだそうだ。
この語を国王ジェイムズ一世が使ったような意味で使いたいという。
ちなみに英和辞書によると、英連邦はザ・コモンウェルスであり、イギリス史では、1649-53(60)の英国政体のことをザ・コモンウェルス・オブ・イングランドというようだ。
この章で重要なのは、『国家の形態は、その共同社会がみずから、加工してつくることができるという概念』だろう。
アメリカがまさに「人工国家」であり、日本は逆に「自然国家」だという人もいる。(確か小室直樹著「アメリカの逆襲」にそんなことが書かれていたと思う)。
4-9 国家はなぜ生まれ、どんな目的をもつのか?
『統治論』第9章(政治社会と統治の諸目的について)では、
人が自然における自由、平等の状態から、共同社会に入って、他人の支配や統制に服する理由を説明している。
それは、自然状態では、財産の享受が不確実で、絶えず他からの侵害の危険にさらされているからだ。
互いが王様のような状態では、大部分の人間が公正と正義を厳格に守ろうとしないので、互いに生命、自由、資産(所有物)を保全するために社会をつくって、これにすすんで加わるようになったというのだ。
しかし、ここでロックは何か矛盾したことを言ってはいないか?
自然状態は自由、平等で所有も適正に保たれていたはずではなかったか。
にもかかわらず、不正な人が多いから、自然の状態は不安定で危険だというのなら、ホッブスのいうように自然は「万人の万人に対する闘争状態」だと、はじめから素直に言ったほうが明快ではないか。
自然の法を守らない人が多くて財産が不安定になるというなら、社会の法を守らない人が多くても同じことだと思うけどね。
「こんなわけで、人類は自然の状態ではいろいろな特権があるにもかかわらず、そのなかにとどまるかぎりは、かえって悪条件のもとにある結果になるところから、すみやかに社会へと駆りたてられるのである。
だからこそ、人数はどれほどでもよいし、時代はいつでもよいが、人々がこういう状態で一緒に生活した例はほとんどみいだされないのである。」(P272)
と、ロックみずから自然状態を非現実的と認めているようだ。
ここには、自然状態の理想化を正当化しようというこじつけ、ごまかしがあるのかもしれない。
また、上記の引用文の説明は、経済学の一般均衡理論を思い出させる。
理想的な均衡点(この場合、秩序ある社会)に向かって、現実は、ブレを生じながらも最適状態にすみやかに向かっていくという発想と近い気がする。
「・・・・・そして共同社会の力の行使は、国内においては、このような法律の執行にのみかぎられ、また対外的には、外敵からこうむる害悪を防いだり、その補償をしたりし、共同社会を侵入や侵略から守るために用いられるべきである。
そしてこれらのことはすべて、国民の平和、安全、および公共の福祉以外の他のどんな目的にも向けられてはならないのである。」(P274)
という文でこの章は終わる。
やはり、とにかく法律を重視している。そして他国に対する警戒と対抗に力を入れるのだ。
それが、国家の安全保障や公共の福祉のためであるという意識は、現代のアメリカとほとんど変わりないであろう。