臨死体験ってこんな感じ? | 不登校・家族のお悩み解消カウンセリング

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娘の不登校からみえてきた自分のあり方や、日々の気づきを綴っています
不登校の問題は、親御さんの家族関係での行きづまり感や、生き辛さとリンクしていることがあります
自分の経験をふまえて、一つ一つ、紐解きながら、軽くなれる法則やあり方をお伝えします


こんにちは


ふと、一瞥体験が起きた時のことを

記録したいと思いたちまして


ある朝

ボッーとして、階段を下りていたら

急に

「私」という過去がザザッーと溶けていき

強烈に、いまにある存在そのものに

なっちゃったんですよね


言葉って

全体を表現するには

限界がありすぎて

一部分しか伝えられないのですけど


本当は最初から

存在そのものでしかなかったのに

「私」が抜け落ちたことによって

そのことを思い出した、という感じです

そして

存在そのものである、という感覚は

何とも、至福で平安で喜びで

もう何にも不足がなくて

何にも特別じゃないのに

ハッピーだったのです

だって、階段下りてただけだったし


でね

このことを

思い返した時に

あー、臨死体験ってこんな感じかも

と思っちゃいました


何年か前に

セラピーの師匠である

溝口あゆかさんの臨死体験を聞いたのですよ


子どもの時の臨死体験なのですが

その時

世界全体から愛されていることが

ありありとわかって

幸せで幸せで、ピースフルで

現世に戻りたくなーいって思ったんだ

そうです


私も一瞥体験をした直後には

普段の私に戻りたくないって

思いましたからねー

まんまと戻りましたけどね

まあ、それは置いておいて


戻ったけれど

強烈な体験なので

やはり感覚は残っているといいますか

意識がいまここのリアルに

戻りやすくなりました


で、そこからすると

「死」そのものが幻想なのですよ



一瞥体験では「私」という自我が

瞬間であっても、溶けて消滅したので

存在そのものの生命エネルギーが

至福として現れたのです


また、あゆかさんの臨死体験でも

あゆかさんの自我が消える体験をしたことで

源の生命エネルギーに触れたのだと

思うのです


だって、「私」という自我が

死んだとして

存在そのものは「生命エネルギー」として

源にかえるだけだから

しかも、その源が至福に満ちている

というおまけつき


これ、みーんなそうなのですよ

あ、「自我」というのは

普段、わたしが「私」だと感じている

身体と思考と感情の集合体のことです

もっといえば

「過去」という記憶の束みたいなものです


これが

「死」の恐怖をひき起こし

「社会的な死」を避けようと

やっきになってしまう

プログラミングの犯人です


いやー、しかし

「死」が幻想だとすると

価値観がひっくり返りませんか


「死」や「社会的な死」を恐れて

必死になっていることって

ないですか?

「必死」と書いて必ず死ぬのですから

どのみち、いつかは自我は死にますけれど

(肉体の消滅)

あなたの本性は、永遠なのだとしたら

現実と闘う必要は

全くなくて

なんだか、ゆるーく

生きていたくなりませんか


読んでいただいて

ありがとうございました♡