水平社創立宣言の実像と深部について(2) | 具志アンデルソン飛雄馬公式ブログ

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1990年来日、壮絶ないじめに遭った経験から現在、全国で人権講演会をしている45歳の4人のパパ、孫も居ます 子どもを育てる傍ら、全国で講演活動を展開中 20年間で1200以上の講演を達成 多くの差別事件を摘発し、解決に取り組む 多文化共生NPO世界人理事長

この評論は、以下のような構成となっています。今回は、前回に投稿した「1 同時代の思想と表現」の続きです。

はじめに

1 同時代の思想と表現

民族自立運動としての水平社運動

ネグリチュードの誕生

西光万吉、平野小剣の場合

 

2 水平社創立宣言への序曲(略)

「檄―民族自決団」

近代日本と人種主義

  水平社創立宣言の序曲

 

3 「特殊」の中の「普遍」―水平社創立宣言

   水平社創立宣言の成立事情と評価をめぐって

反逆の措辞―「特殊部落民」の使用

   現在の秩序の変革への意志

   集団的アイデンティティの創造

   人間主義への飛翔

 

4 水平社創立宣言の批判と回収(略)

部落民意識運動の失速

水平社創立宣言の全面否定

   ネグリチュードの批判―サルトル「黒いオルフェ」

  ファノンとネグリチュード―『黒い皮膚・白い仮面』『地に呪われたる者』

 

おわりに―水平社創立宣言の現代的意味

 

ゆめネットみえ通信

1 同時代の思想と表現(続き)

西光万吉、平野小剣ら全国水平社の創立者たちも、「部落民」として「人間」を否認された経験を何度もしていた。1895年に奈良県南葛城郡掖上村柏原北方に生まれた西光は、1947年に書き上げた「略歴と感想」(13)の中で「七歳の春、掖上村尋常小学校に入学し、初めて不合理なる賤視差別のあることを知った。/その後同郡御所高等小学校を経て、同県立畝傍中学校にはいり、二年にて中途退学し、翌年、京都市平安中学校に移り、再び中途退学す。病気と被差別のためである。」と記している。そして、画家修業のために移った東京の下宿先でも差別に出会う。西光は「東京へ行った第一夜、初めての晩ですよ。(略)階下で下宿のおかみさんたちが話しているんです。『新しいこどもが来ましたね。どこから来たんです。』『奈良県ですよ。奈良県には、名物が三つありますよ。』『何でしょう。』ほかに下宿している人たちも話し込んでいるんです。『ひとつは奈良の鹿。もうひとつは奈良のおかゆ。あとひとつは、えたや。部落民や』いうてるんですよ。私はその夜眠れませんでした。畝傍中学で差別を受けてやめ、故郷を離れれば、こんな差別的なことを聞かなくてもよいと思って東京へ来たのにその第一夜にですよ。寝られますか。」(14)と語っている。こうした度重なる差別に遭ったことで恐怖心やおびえを植え付けられた西光は、手厚い援助をしてくれた画商にも部落出身であることを明らかにできず自ら遠のいてしまい、画筆からも離れてしまう(15)。

その後、絶望感から自殺への願望をいだいてさすらい続けた西光は、これまで逃げていた故郷の柏原に戻り、親友の阪本清一郎らと「柏原青年共和団」を結成し(その後、同人組織「燕会」へと発展)、1921年11月には水平社創立事務所を柏原に設けた。そして、水平社創立趣意書という副題のある「よき日の為めに」(1922年2月5日発行)を書き上げ、「起きて見ろ―夜明けだ。/吾々は長い夜の憤怒と悲嘆と怨恨と呪詛とやがて茫然の悪夢を払いのけて新しい血に蘇らなければならぬ。」(16)と、「人間」を否認されつづけてきた部落民の「憤怒と悲嘆と怨恨と呪詛」という共通感情と闘争の決意を明らかにした。

 1891年に福島県福島市代町に生まれた平野は、西光よりもさらに苛酷な差別に出遭っていた。平野の自伝『水平運動に走るまで』(『同愛』第3号、1926年3月)によると、尋常小学校と尋常高等等小学校のときに、級友から「『新平民』という強い新しい言葉」を何度も浴びせられ、「尋常四年卒業で、尋高11月までしか学校に通わなかった」(17)。そして、「福島県庁の給仕になろうとしたとき、『新平民の子だから採用はできぬ。』と云って世話人から履歴書をつき返された」。その後、兄を頼って上京し、「秀英舎印刷工場に文選工として働くことになった」が、そこでも口論した同じ故郷から来ていた一職工」から「犬殺し野郎―新平民メ―」と身分暴露され、それが喧伝されて「女工なども袖引き合うて面罵する態度をする」ようになり、いたたまれずにその工場を辞め、他の工場を「転々として歩かなければならなかった」。

「博文館印刷工場に働いていた」21歳の時に、「一女工」と恋愛関係になったが、その女性に「横紙的に恋していた男の口から『あいつは新平民だ―』」と囁かれ」、彼女は「お前さんは新平民だということをお友達から聞かされた。妾(わたし)は今日かぎり絶交いたします。妾は新平民などと交ったことを思うと悲しくなった」という絶交状を送りつけられる。再び秀英舎に雇われた時、「欧文女工と同棲することになった」が、媒酌人であった人が女の両親に「実はこの男は新平民なのだ。身分がわかったのだ―」と話し、両親も反対したため「同棲わずか15日にしてその家を飛び出した」。

 こうして平野は、「世の中の人はみな鬼だ。呪われるものは呪い返せ、そして最後は母の側に来い。母は温かい手をひらいて待っている・・・」という母の最後の「言葉を深く胸に刻んで」、「社会のすべてと戦うんだ。戦って戦って最後まで戦い死にする」と決意し、社会運動のなかに入るようになり、「ロシア革命によりもたらした(世界の特殊部落民族)ユダヤ人が解放されたかの如き謬伝をも考えたとき、日本の特殊部落民は、革命の洗礼によってのみ解放されることを信じるようになった」。そして、1921年2月13日の「同情融和会」で「民族自決団」の名で「檄文」をまいて、「明らかに『新平民』として名乗りをあげ、長年の苦悶を社会に訴え」、「そして今日から、新しく社会に対し、特殊部落解放への首途(かどで)に起つことを決めた」。

 このように、西光や平野、そしてセゼールも、「人間」を否認された「苦悩と、押し殺された憤怒と、長い間口を閉ざしてきた絶望という重い背景から、ひとつの怒りが立ち昇り吹鳴を響かせ」(18)、自分自身及び自己が帰属する民族・集団の救済とともに、あらゆる人間の解放を追求する闘いへ突き進んでいったのだった。

 

(13)西光万吉「略歴と感想」『西光万吉著作集』(第1巻、濤書房、1971年、86頁)。

(14)福田雅子『証言・全国水平社』(日本放送出版協会、1985年、66頁。)

(15)  同前、67頁。

(16)沖浦和光編『水平=人の世に光あれ』(社会評論社、1991年、179頁)。

(17)以下の平野小剣の記述については、平野小剣「水平運動に走るまで」『同愛』第3号、1926年6月(前掲『水平=  

       人の世に光あれ』所収)を参照。

(18)エメ・セゼールの二グロ・ルネサンスの黒人詩人たちに関する記述(砂野幸稔「エメ・セゼール小論」前掲書、255

       頁)。