中央大学法学部昭和17年卒業アルバムから戦時を考える
2022年6月22日に「中央大学法科第57回卒業記念(昭和16年12月)アルバムから戦時を考える」と題して投稿した。 手元にその翌年、1942(昭和17)年9月卒業の卒業アルバムがある。1941年に引き続き、2度目の繰り上げ卒業のアルバムである。濃紺のクロス装、縦27cm弱、横38cm弱の横長である。標題紙には「中央大学法学部|卒業記念写真帳|昭和十七年九月|皇紀二千六百ニ年」とある(|は改行を表す)。 アルバムの紹介、時代背景を以下に掲げる。1 アルバムの紹介1)構成◎「見出し」欄はアルバムに表示されたものを採録。([]で示したのは筆者が付けた仮称)。◎「内容」欄は筆者が作成した。 見出し 頁数 内容 [標題紙] - 「中央大学法学部 卒業記念写真帳 昭和十七年九月 皇紀二千六百ニ年」とあるほか、騎馬の兵(将校?)と銃を持つ兵の銅像写真1枚 [校舎写真] 2 写真3枚 [校歌] 1 歌詞、譜 [林頼三郎学長] 1 学長の写真1枚、色紙「至誠一貫」(林は学長に1938年3月就任) [原嘉道前学長] 1 前学長の写真1枚(原は学長を1938年3月に辞任) [理事] 1 理事の写真5枚 [学部長] 1 法、経済、商学部長の写真(各写真1枚)(法学部長は林が兼任) 恩師の面影 5 教員写真;末尾に配属将校・教練教師3人(大佐2人、少尉1人)を含む [授業風景など] 1 授業風景など 写真5枚 学びの友 23 図書館前での卒業生集合写真1枚(前列中央に教員1人/配属将校3人)、卒業生の個人写真(22ページ;132人) グループ 13 写真51枚 鍛錬 3 「報国隊結成式」(写真6枚)(1941年9月26日) 「大運動会」(写真10枚)(1942年5月10日?) 「教練査閲」(写真5枚)(1942年6月15日?) 学園 3 「鍛錬部」(野球部、相撲部、柔道部、剣道部、各1枚) 「音楽会」 写真6枚 「学校の人々」 事務室の様子 写真4枚 [世相] 1 新聞(当時の新聞記事のコラージュ) 1枚 編輯後記 1 編輯後記、委員(11人)の集合写真1枚 卒業生住所録 2 141人の住所付き名簿(注1) [刊記] - 東京市神田区駿河台下・電停際丸善筋向 山田写真場調製 注1:中央大学サイトの「戦時の学生と中央大学 -中央大学に残るアジア太平洋戦争期の史料-」の「入学者数、在学生数、卒業生数など」には、1940年度の入学者数について、法学部昼間部400人、同夜間部204人、計604人としている。また、『中央大学百年史』通史編下巻129ページには1940年度の法学部の在学生数を1,417人としている。 2)編輯後記 以下に全文を掲げる。 今や学成りて憶ひ出の白門を出て来んとする諸兄が机上に好個の贈り物此の青春記録の一頁を呈す。諸兄が学窓の憶ひ出は此のアルバムを繙いて温められ友への強き絆たらん事を固く信じつゝ ----------------------------------------- 支那事変から大東亜戦争へ世紀の動乱に綴られ行く新しき世界歴史、それはとりも直さず吾等が勝利の歴史である、吾等は斯る光栄ある歴史創造の任務を帯びて船出せんとす。憶えらく生きて同天の難図を為し死して千歳に高名を垂る(注2)、人生の意義之を以て盡きたりとすべき乎 今会員諸兄の熱烈なる御協力を得てアルバムの編輯を終るに際し顧みて杜撰の誹免れがたきも材料難と極度に短き日時に抗して最善を念じたる編輯子の努力に対して諸兄の御理解と御寛容を望むや切なるものあり 諸兄の御健闘と御多幸を祈る アルバム編輯委員記 注2:「憶えらく生きて同天の難図を為し死して千歳に高名を垂る」と読んでおく。「難図を為し」は難しい図りごとをなすという意味と理解した。 3)特徴(1)戦時色が強い●標題紙の写真は兵隊がモチーフ アルバム冒頭は戦時を物語る兵の写真である。 この銅像をインターネットで検索したが見つけることはできなかった。金属供出で武器などになったのかもしれない。●集合写真の前列に将校3人が座っている 図書館前での集合写真の前列に配属将校1人、教練教師2人(注3)が教員らしき人物の脇に座っている。上記「1)構成」に掲げた配属将校/教練教師3人と容貌が一致する。 集合写真は、一般的に教員が複数人座り、まわりを卒業生が囲むものが多い。戦時とはいえ、これをどう理解すればよいのだろうか。 当時夜間部に配属将校が担当する教練は配当されていなかったので、このアルバムはおそらく昼間部のものであろう。 注3:教練を担当する教師は一般に「配属将校」とされるが、給与が公費の配属将校のほかに各学校が雇入れる「教練教師」がいた。中央大学においても1941年時点で配属将校1名(大佐)、教練教師4人(大佐、少尉ほか)がいた。以上は、同大学サイト「戦時の学生と中央大学 -中央大学に残るアジア太平洋戦争期の史料-」の「軍事教練」の「3)教練必修化後の状況」の「1942(昭和17)年03月24日 学校教練実情況報告之件」による。 ●報国隊結成式 このページには上部に「於戸山学校」とある。陸軍戸山学校(現新宿区戸山の南部に所在した)を表す。 写真は、左上から時計回りに、戸山学校へ向けての行進写真(先頭には校旗を持つ学生;それを「閲兵」するように眺める壇上の人物)、軍楽隊(戸山学校の学生か?)の演奏写真、中央大学校内での整列写真(前列には2旒の校旗とそれを持つ2人の学生;壇上から何かを話す人物)、戸山学校(運動場)での整列写真(先頭には校旗を持つ学生)、靖国神社参道を隊列を組んで歩く写真、皇居前広場と推測する場所で整列する写真の6枚が掲載されている。 『中央大学百年史』には、「この日参加した学生は約5,000人」、「隊長代理の山田は、中央大学学生が「隊伍整正」、「規律厳粛」「号令適切」「敬礼厳正」で元気潑刺で良好な成績であったと評価し」たとある(注4)。当時の在学生数は約9,500人なので約53%の学生が参加したことになる、昼間部の学生に限れば全員が参加したことになる(注5)。 注4:『中央大学百年史』通史編下巻118ページ(「第8章 戦時体制下の中央大学」)。中央大学ウェブサイト「戦争と中央大学プロジェクト」に掲げられている「展示図録」の「報国隊編成表」(1941年9月)には、学部、専門部、予科の合計で4,918人としている。 なお、中央大学ウェブサイト「タイムトラベル中大125」の「中央大学報国隊の結成」も参照。 注5:中央大学ウェブサイト「戦時の学生と中央大学 -中央大学に残るアジア太平洋戦争期の史料-」の「入学者数、在学生数、卒業生数など」の「5)1941(昭和16)年度入学者数および在学生数」によれば、学生数は以下のとおりである。学部昼間部1,775、夜間部1,018、専門部昼間部1,164、夜間部3,783、予科昼間部1,530、夜間部258人。昼間部だけの合計は4,469人となり、夜間部を含めた総合計は9,528人となる。なお、『中央大学百年史』通史編下巻129ページ(「第8章 戦時体制下の中央大学」)の「中央大学学生数」表の学部、専門部の学生を合計すると8,271人である。 ●教練査閲 このページには上部に「(歩武堂々中大生ノ意気高シ) 頭ラー右」、下部には「査閲官殿講評・・・「成績大ヒニ優秀ナリ」・・・」とある。数百人に及ぶと推測する学生が、銃に剣を付け、行進あるいは整列している写真がある。また、「査閲官殿講評・・・」の上部には、馬上の査閲官とおぼしき将校に注目している銃を持った多数の学生が写っている。 下記の年表に記したように、おそらく、1942年6月15日に代々木練兵場(現在の代々木公園および周辺)で行なわれた「学部教練査閲」と推測する。●世相を表す新聞コラージュ 新聞記事の見出しを重ねて作った戦時を表すコラージュ。戦争以外のものはない。いくつか紹介する。 新嘉坡陥落・・・ (筆者注:新嘉坡=シンガポール) 英軍遂に白旗・降伏を申出づ この魂・この手柄・日本人はみんな泣いた 帝国、米英に宣戦を布告 殉忠の精華・特別攻撃隊・・・ 独伊両国・対米戦に参加 米太平洋艦隊全滅す 不滅の偉勲・天聴に 撃て! 東亜の邪敵米・英 おそらく編集を行なった山田写真場が、作成したものであろう。(2)個人のメッセージが掲載されている 全員ではないが個人のメッセージが掲載されている。日付のあるものは同年7月付のものが多い。 いくつか紹介する。 (最初のページから5ページごとに拾った。()内は学生の姓。●は引用者には読めなかったもの)。 熟慮断行ハ 此人生ノ要諦ナリ(秋川) 岬に停ryの雲 岬を出づるも雲 会するも雲 別るゝも雲(浅川) 誠(●日) 平々凡々の中 学窓もさらば さあこれから 船出だ(芦原) 中央の学びのいへに早やみとせ 今や巣立たんも々の憶ひ残しつ(石江) 卒業??(●●) 刻苦勉励(加藤) 其の日々を育め(加藤) 大陸ニ●●東亜共栄圏確立ノ捨石タルヲ光栄トス(●●) 人に御され人を御す真理を掴め 未来の社長(高杉) あはただしかりし学部生活二年半。皇軍アリチシヤンに上陸(高橋) 引用者注:アリチシヤンはアリューシャンと推測; 1942年6月3日から7日にかけて日本軍が占領。 忍耐(谷山) 平凡ナル事ヲ非凡ナル努力デ行ヘ(遠山) ●●佳食を恥ず(星村) 常に兄等を憶ふべし 生成二十五年を自覚 卒大学の今は生活和楽(堀池) Viele Körner machen einen Haufen(●●) 正道直行(松尾) 愚論をやめて 厚木へ来い 厚木は灯の街恋の街(横澤) 反省(横山) 御稜威ノ下断々乎トシテ我起タン、イサ(吉田)(3)国家との関係●林学長写真のキャプションは「学長 法学博士 林頼三郎 閣下」。●原前学長写真のキャプションは「前学長 枢密院議長 法学博士 原嘉道閣下」。 「閣下」について『広辞苑』第4版には、「高位高官の人に対する敬称。旧勅任官や将官以上の人に用いた。」とある。林は、検事総長、大審院長、法務大臣を歴任している。つまり、国の要職に就いたことをもって「閣下」と敬っているのだろう。また、原は現職の枢密院議長であることから「閣下」としたのであろう。 私立学校と国家という本来なら関係が薄いにもかかわらず、このような表現を採るのは、やはり国家が前面に出て国民を支配するという時代であったからであろう。2)時代背景 上記の1941年12月卒業アルバムの記事で紹介した内容も含めて時代背景を紹介する。(1)概要 入学した1940(昭和15)年は、皇紀2600年とされ、中央大学も「奉祝記念大運動会」、「奉祝式」を開催している。 10月には、官製国民統制組織である大政翼賛会が結成され、各政党は解党してこれに参加;総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任、行政補助的役割を果たす時代の始まりであった。 1941年は、9月に「報国隊」(上記注4参照)を結成し式典を行なっている。この模様はアルバムに6枚の写真を使って掲載されている。 10月に勅令で、6カ月以内の繰上げ卒業を可能とした。それを承けて、11月、このアルバムの持ち主たちの卒業期が1942年9月とされた。12月に米英に宣戦布告(米国ハワイ州真珠湾攻撃、英領マレー半島コタバル侵攻)。 同じ12月の文部省専門学務局 発専239号「昭和17年度在学年限又ハ修学年限ノ臨時短縮ニ関スル件」で、冬休みは短縮し新年は遅くとも1月8日から授業を実施すること、春季休業も短縮することとされた。したがってこのアルバムの持ち主も休暇の少ない休みを体験したのであろう。 1942年4月には、米軍による初めての日本空襲(東京、川崎、横須賀、神戸、名古屋;死亡約90人、負傷約460人;報道管制で報道されず)。6月のミッドウェー海戦による損害で日本の勢いが大きくそがれ、劣勢に傾く。また、学生生徒を対象とした臨時徴兵検査が4月に行なわれた。 このアルバムの学生は、そのほとんどが第一次世界大戦が終わった1918年前後に生まれた人たちだろう。上記で紹介した中央大学サイトの「戦時の学生と中央大学 -中央大学に残るアジア太平洋戦争期の史料-」によれば、現代のように現役で大学に入る学生は少なかった。したがって卒業時に23歳、24歳という人も多かったはずである。(2)関連年表 記事末尾に * 印を付したものはウェブ版「中央大学年表」から、**印を付したものは中央大学ウェブサイトの「戦時の学生と中央大学 -中央大学に残るアジア太平洋戦争期の史料-」から情報を得た。その他の情報元は記事末尾に表示した。 時期 日本・世界・中央大学 1931(昭和6)年9月18日 満州事変(柳条湖事件) 1932年5月15日 五・一五事件 1936年2月26日 二・二六事件 1937年7月7日 日中戦争開始(盧溝橋事件) 1938年5月 「国家総動員法」施行 1938年6月 文部省、「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を通達 1939年3月 文部省、「大学学部教練ニ関スル要綱」(学部教練必修化)を通達 1939年9月 第二次世界大戦(ドイツがポーランドに侵攻、英仏がドイツに宣戦布告) 1939年5月22日 天皇、『青少年学徒ニ賜ハリタル勅語』を下賜 1939年9月 政府による物価統制(公定価格)開始 1940(昭和15)年4月 入学 1940年4月25日 靖国神社臨時大祭で臨時休校* 1940年5月6日 皇紀2600年奉祝記念大運動会を練馬運動場で挙行* 1940年6月 政府による配給制開始(41年6月の砂糖・マッチの切符制、41年の米穀配給制、42年の衣料総合切符制と続き、ほとんどの物資が統制配給) 1940年6月19日 紀元2600年奉祝銃後奉公祈誓大会 1940年7月6日 支那事変3周年記念勅語捧読式を大講堂で挙行、靖国神社参拝* 1940年9月 日独伊三国軍事同盟調印 1940年10月 大政翼賛会結成 1940年10月30日 教育勅語渙発記念式を大講堂で挙行* 1940年11月3日 明治節奉拝式・紀元2600年奉祝式を大講堂で挙行* 1941(昭和16)年1月 箱根駅伝中止 1941年1月12日 箱根駅伝中止、第1回東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会総合5位 1941年6月1日 興亜奉公日とあわせて練馬運動場で運動会を開催* 1941年8月8日 文部省訓令第27号「学校報国団の体制確立方」発出 1941年9月18日 満州事変10周年記念講演会を開催、教職員・学生代表が靖国神社参拝* 1941年9月26日 中央大学報国隊結成式* 1941年10月16日 勅令「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」(同日施行)(6か月以内の卒業時期の短縮ができるとする内容)(『官報』) 1941年11月1日 文部省「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十七年度臨時短縮ニ関スル件」公布(大学、大学予科、専門学校などの6か月繰り上げ卒業)(『官報』) 1941年11月3日 明治節奉拝式* 1941年12月8日 日本、米英に対して宣戦布告 1941年12月20日 文部省専門学務局 発専239号「昭和17年度在学年限又ハ修学年限ノ臨時短縮ニ関スル件」を公布し、以下の指示を行なう。** 1)現大学2年生の卒業期は1942年9月とすること。 2)これを実現するため毎週の授業時間数を工夫すること。 3)3年生の授業科目を前倒しして2年生で履修させても構わないこと。 4)冬休みは短縮し新年は遅くとも1月8日から授業を実施すること、春季休業も短縮すること。<以下略> 1942(昭和17)年2月18日 シンガポール陥落祝賀式、宮城・靖国神社へ祝賀行進* 1942年4月12日-31日 昭和17年臨時徴兵検査(『朝日新聞』同年2月20日) 1942年4月18日 米軍による初の日本空襲 1942年4月25日 靖国神社臨時大祭につき臨時休業* 1942年4月29日 天長節奉拝式を大講堂で挙行* 1942年4月30日 第21回総選挙(翼賛選挙) 1942年5月10日 運動会を練馬運動場で開催* 1942年6月3日-5日 ミッドウェー海戦 1942年6月15日 代々木練兵場で学部教練査閲* 1942年7月7日 支那事変記念日、教職員・学生生徒代表が靖国神社参拝* 1942年9月18日 満州事変記念日行事として教職員・学生靖国神社参拝* 1942年9月27日 第58回卒業式を講堂で挙行(6か月繰り上げ卒業)、卒業生-法学部760人、経済学部287人、商学部91人、専門部法学科1559人、専門部経済学科648人、専門部商学科376人、予科1787人(昭和17年3月卒業の530人を含む)* (引用者注:中央大学年表の記述をそのまま引用) 以上、アルバムの紹介とその時代を紹介した。 繰り上げ卒業期の11か月前に卒業は来年の9月だと知らされた学生は、どのような思いであったろうか。 1期前の学生たちが3か月繰り上げで卒業するような「非常時」であることを受入れ、国民(当時は「臣民」)として当然と考えたかもしれない。また、在学中であることで徴兵を猶予されてきた自分以外のまわりの人々は20歳を迎えれば多く徴兵される;学生だからといって主張はしないと考えたかもしれない。あるいは、受け容れなければならない(受忍)という雰囲気のなかで思考停止をしたのかもしれない。 歴史の書物を読むと、真珠湾攻撃の戦果に国民は酔ったとの指摘もある。学校教育のなかで天皇中心の政治の正統性を教えられ、一方的に戦果だけを伝える新聞やラジオ放送に触れる人々は、日本がアジアを欧米の脅威から守ることと理解したのだろう。このような背景があって酔ったのではないか。 ミッドウェー海戦で日本は打撃を受け、これを契機に1945年の敗戦へと坂を下って行った。報道管制のなか、アルバムの学生は海戦は勝利としてしか受け取っていないだろう。- 81年前の1941年12月8日真珠湾攻撃を前に -