King Gnuの常田さんを知り、中学時代の友人O君のことを思い出した。

たたずまいが、とても似ていたなーーと。

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30年以上前、中2当時の僕は、校内暴力に揺れる公立中学校にいて、洋楽のハードロックやベビーメタルにハマっていた。周りは横浜銀蠅とか騒いでいたが、ダセー。とおもっていた。

当時、母はエレキギターを買うことには同意せず、アコースティックギターを買ってくれた。
僕はそのギターにエレキギターの弦を張って、マイケルシェンカーなどのギタリストのコピーに励んでいた。

そして中3に進級し出会ったのが、O君だった。

彼は中学生なのに、大人っぽい人で、話すと音楽を志していると言う。
僕も音楽の道に進みたいなーなんて漠然と思っていたので、彼の家に遊びに行った。

初めて彼の家に行った時の衝撃は今でも覚えている。
彼の家は正直、とても狭く、彼の部屋もとても狭かったのだが、なんとその狭い部屋の中に音楽スタジオ並の機材が揃っていたのだった。

彼の部屋の中には、ギター(エレキ、アコースティック)、エレキベース、電子ピアノ、シンセサイザー、それぞれのアンプ類。そしてドラムセットまであった。全部で当時のお金で30万円近い金額の機材だったと思う。

中学生が保有する機材とはとても思えなく驚いた。
「すごいね・・・」と絶句していると、更に驚いたのは、全て彼自身が新聞配達で稼いだお金で購入した、ということだった。
自分のやりたいことを貫くその姿勢に尊敬の念をもった。

思えば僕はそこまでは出来なかった。
僕の父母は比較的、僕を拘束する親ではなかったが、新聞配達をして30万円の機材を買うと言ったら、さすがに反対していただろう。
エレキギターでさえ、「中学生には早い」と反対されたのだ。

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彼はそのミニスタジオで作曲をして、全楽器を自分で弾いて宅録を行なっていた。
聴かせてもらった音楽はクオリティが高かった。
同じ中学生なのに、レベルが違った。
彼は音楽理論も自分で学んでいて、かなり専門的に音楽に取り組んでいた。
僕は彼の家に毎日のように通うようになった。

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彼からは大きな影響を受けた。
音楽的な視野、興味が、彼をきっかけに広がっていった。
僕が今でも大好きなスティーリーダンやパットメセニーなどのジャズのほか、クラッシックの素晴らしさも彼から教えてもらったのだった。

中2くらいまで僕が好きだったハードロック、ヘビーメタルといった音楽は激しい一方、画一的で音楽的にはアグレッシブなチャレンジをしてないなーと感じた。そう思ったらそれらの音楽への興味は減退していった。
(今では、それはそれで好きなのだが。)

その後、彼と僕を含む彼に影響を受けた数人でバンドを結成した。
「Tシャツプロジェクト」という名称だったように思う。Tシャツのように、シンプルで、定番な音楽を作ろうという発想だったように記憶している。ジャンル的に言えば、ジャズとロックの間にあるようなフュージョンをやっていた。
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彼は某県立高校の音楽科に進んだ。
僕は中2における学力低下の影響で、今では偏差値40台になってしまった某県立高校に進んだ。

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高校に入っても、僕は同じ高校メンバーとは、ハードロックバンドに取り組み、他方でA君のところへ通い、彼を中心とした仲間たちと音楽制作に取り組んでいた。

音楽ばかりやっていたなーー。

音大に行きたいと、ピアノ教室に通わせてもらったのも、この時期である。

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しかし、この音楽生活は、突然、終止符を打たれることになる。

高2のある時、O君の家にいくと、彼から衝撃的な宣言があったのだ。

「オレ京大に行きたい。京大目指して受験勉強始めるから、もう音楽はやめる」と。

僕たちメンバーは驚いた。
僕らのリーダーのO君がいきなり音楽をやめるというのだ。

その経緯は下記にも書いた。

今にして思えば、ここで僕には、O君は関係なく、音楽の道に突き進む道もあったであろう。

しかし、今にして思えばラッキーだったことに、僕は、「O君は京大行きたいというけど、日本には他にどんな大学があるんだろう?」と考えた。

ちょうど、高校で仲の良かったT君が「青学に行きたい」と言っていたことも影響した。  

それに、O君がいない音楽も面白くないしなーーと。

そこで、書店で大学受験に関する雑誌をみて、各大学の所在地、偏差値などをチェックし、俺も大学に行くか、と思った。

O君が目指すという京大の難易度を確認し、県立高校の音楽科から、京大に進みたい、というO君のチャレンジ精神に改めて感心した。

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そしてそれからは、以前にも書いたが、高2で代ゼミの夏期講習を受け、都内の美女に逆ナンされた。
それに気を良くした僕は、高2の2学期から週3で代ゼミに通った。
英語の青木先生、現国の田村先生に出会い、勉強するのが楽しくなっていった。
そして1浪の末、早稲田法学部に進んだ。
高2の夏時点では偏差値40台前半という状況からの戦いだった。

O君は1浪の末だが、宣言通り京大に進んだ。
今、京都でIT関係の会社を経営している。

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数年前に、京都で彼と飲んだ。
30年以上ぶりの再会だった。

彼にあの時、音楽をやめると宣言した時のことを聞いてみた。どうして音楽やらないで京大?と。

彼は、「数学解くのが楽しくなっていったから」と、ニヤっと答えた。

そして音楽の話で久しぶりに盛り上がった。。