連投すいません。サンタバーバラでの話の2回目です。色々思い出し、一気に書いてます。
よろしければ前記事もご覧ください。
80年代後半の当時の受験英語
今では高校入試でも出題される英語のリスニング。
我々の時代、80年代後半では大学入試でさえも、全くと言っていいほどリスニング対策を行う必要がなかった。
そんな英語教育を問題視し、様々な改革がなされていくのは後年の話。
僕はいわゆる受験英語のみでしか通用しない英語力しか持ち合わせていなかった。
そんな僕の英会話力、通じるのか。
当時の僕は、そんな不安など関係なく、大学3年生のうちに海外をちょっとでもいいので経験しなきゃ、と考えていたのかな。
あまり覚えてないや。
英語で会話していたんだな。
今から思えば、ホームステイしていたんだから、ホストマザー含む家族の人々と英語で会話したはずだった。リーディングくらいしかやってこなかった僕の会話力など、あてにならないものなはずだった。
しかし家族の方々と会話した内容は、結構覚えている。不思議なことに僕の頭の中では日本語で会話したように覚えている。何だかんだで通じていたんだなーーと。感慨深く思う。
ホストマザーとご対面
サンタバーバラに着き、それぞれのホームステイ先の家族と対面。
僕のホストマザーは陽気で朗らかな人だった。
彼女はオレンジ色のフォルクスワーゲンゴルフのカブリオレに乗っていて、だいたいオープンカー状態で車を走らせていた。
最初の出会いはこんな感じだった。
ホストマザー「何て呼べばいいの?」
僕「Masa です」
そして彼女自慢のオープンカー状態のワーゲンゴルフで、スーパーマーケットに連れていかれた。「私は申し訳ないけど料理が苦手なの。料理は期待しないでね。日本の母親は料理が上手いんでしょー?」と何回も言っていたな。
スーパーマーケットで最初に飲み物コーナーへ。
「飲み物は何が好き?」
水かお茶を探したが、当時はミネラルウォーターなど確か売ってなかったし、烏龍茶などサンタバーバラのスーパーに売っているはずもなかった。
困った僕は「コロナビア」と答えた。
すると彼女は「悪い子ね。」とウィンクして、2ダースほどのコロナビールを、カゴにドサっといれてくれたっけ。
そうやって彼女は僕の好きな野菜や果物を聞いては、カゴに投げ入れて、大量に買ってくれた。
アメリカの食生活
僕は日本からお米や醤油などを持って行った。
お米は僕が鍋で炊いた。
それを家族みんなで食べ始めると、ホストファミリーのパパと10歳の息子が「味がない」と醤油をドバドバかけていたっけ。。
違うなアメリカは。と思った。
だいたいホームステイ先でご飯を食べる時は、こんな感じだった。
ホストマザーが野菜を切って出す。
パパが外で肉を焼く。
パンかベーグルをホストマザーが焼く。
それをサンドウィッチ状態で食べる。
料理ができないというホストマザー。
ご飯は至ってシンプルなものだった。
だから家族はよく外食に出掛けていた。
マクドナルドやシェイキーズ、タコベルというタコスの店など。そしてそういう食事をした後はハーゲンダッツでアイスクリーム。
すごい食生活だなーー、と思った。
ホストファミリーのパパは「メキシコのビールなど飲めるか!オレはバドワイザーしか飲まねー」と言う。ラグビー経験者の漁師らしく体育会系だった。
だからホストマザーが買ってくれた大量のコロナビールは僕が飲むしかなかった。
毎日のようにコロナビールを飲んだなー。
アメリカでそんな食生活をしたので、日本に帰ったら「あれ?太ったねー」とみんなに言われたっけ。。。
─────────────────
ショッピングアニマル
別のホストマザーが僕らをビバリーヒルズに連れて行ってくれた。名古屋から来た3人の男子は、ものすごい勢いで買い物をしていた。
それぞれの彼女に宝石を買ったり。
すげーなと思った。
僕はラルフローレンでシャツを買ったり、日本にいる彼女や友人にお土産を買ったりしたっけ。。
丁度、ジャパニーズマネーが批判されつつあった時代だった。
ホームステイ先に戻ると、「さすが、日本人はショッピングアニマルね。」と笑われた。
ある時、サンタバーバラの街を歩いていると古着屋を見つけた。
入ると大量のリーバイスのジーンズ。そして物色していたら、「Levi's」の「e」の文字が、「E」の希少なGジャンを発見した。確か数ドルだったと思う。
僕は狂喜し、その希少なGジャン、Gパンを数着購入した。
帰るとホストマザーが「Masaは日本人なのに、メキシコ人が買うような古着が好きなのね。珍しいわね。」と笑った。
わかり合いたい気持ち
ホストマザーはクルマの中で色々な話をしてくれた。
高校生のときチアリーディングをやってた話、ミス○○に選出された話、親戚がアルコールを飲みすぎてアル中になってしまった話、22歳の娘さんがフィギュアスケートをやっていた話など。
そんな話を覚えている。
何故かホストマザーの英語は僕にスッと入ってきた。
優しく語りかけてくれたからかな。
僕も、家族のこと、恋人のこと、大学のこと。日本のこと。色々な話を一生懸命伝えた。
僕は前の記事のように、女子2人、男子4人で行動したが、ホストファミリーなどのアメリカ人の方々がいるところでは、なるべく日本人同士で連む(つるむ)のはやめた。
おしゃべりなオレは、たった3週間だけど、普通のヤツの一年分の会話をアメリカ人とするんだ!と思っていた。
─────────────────
ただ不思議と、ホームステイ先の娘さん(22歳)、息子さん(10歳と2歳)の話は分からなかった。彼らは僕ら日本人にもに手加減せず、普通に会話してきた。
特に娘さんの話す英語は分からなかった。
日本の女子のようなガールトークをマシンガンのようにした挙句、時折発する「really ?(マジ?)」しか分からかった。笑
娘さんも「日本人の英語は、canなのか、can’tなのか分からない」と言ってたっけなー。
ホストパパは体育会系だったけど、手加減して話してくれた。
10歳息子、娘さんの彼氏、僕、パパで、テニス、卓球、ヨットなどのスポーツを一緒に楽しんだ。
娘さんの彼氏を自分の息子のように可愛がっていたのが印象的だった。
─────────────────
不思議と娘さんの彼氏とは仲良くなれて、色々話をした。
彼は本当に優しい人で、性格も穏やか。知的な人だった。会話も僕に合わせてくれた。
彼の家にも遊びにいった。
僕の好きなアーティスト、スティーリー・ダンの話で盛り上がった。このスティーブガッドのドラムが最高だよね!とか。英語で会話が成立していたんだな。。。奇跡のように思える。
─────────────────
僕は、わかり合いたい気持ちがあれば、会話力など飛び越えるんだなーと思った。
伝えたい気持ち、分かりたい気持ちがあれば、異国の言葉でも何とかなる、ということを学んだように思う。
特にホストマザーと、娘さんの彼氏。
彼らのおかげで、それを感じた。
別れと再会
そんな過ごし方をしたせいか、ホームステイ先の家族は僕をとても気に入ってくれた。
別れる時は本当に悲しかった。
ホストマザーは泣きながら「あなたは、私がホームステイで受け入れる、最初で最後の子よ」と言ってくれた。
しかしFacebook って便利なものだ。5年くらい前かな。Facebook でホストマザーを探したら見つかったのだ。
連絡したら、「いやーー懐かしいわね。再会出来て嬉しいわ。My lovely Japanese son!」と。
繋がって嬉しい。。