歴史 | 世の中をなんとなく考察

世の中をなんとなく考察

世の中のキャッチーな言葉に囚われてはならない。
いつも根本にあるのは、人間の本能からくる欲求、それを起こす心の動き。
世界は誰かが良いと思うことの集まりで出来ている。
が、誰にとっても良いわけではない

 

 

正しい歴史認識が必要かどうかは議論の余地は無い。必要は無い。

個々人の価値観が国を作っているのに正しいという一つの目標に無理やりまとめようとすると

歴史を学ぶことは出来るが意義のようなものが失われてしまうと思う。

 

が今日本は単一民族で生きてきた歴史が有るので、他国の人間に示すための物、日本が内側を向いていた時代では価値はあるかもしれない。

 

 

それでも歴史をすべて正しく評価することは不可能であるしソレを可能なようにしてしまうようなことが出来てしまえば歴史を学ぶことでは無く知識を詰め込むだけの勉学になってしまう。

 

理解している人、いない人、関心がない人、国家という枠組みが嫌いな人。

ありとあらゆる層に手軽に自分の価値観を落とし込んで自分なりの歴史観、国家観を作り上げることが出来

個人では無く、社会の??に??対する価値観を育てていくためのたたき台。

 

 

実態があるようでない、正解があるようでない。曖昧なものでそもそも自分から言わせれば歴史は学問とは違うような気がする。

自分が見えること、評価できること、意味が分からないと感じること、嫌悪すること、感謝すること、

人が出来ること、おおよそ内包しているのが国家だから長い歩みをジロジロ見ても文句を言われず、間違っていると感じても

それを正もしないし批判もして来ない。

それゆえに自分なりの確信が有るまでは永遠に学び続けることが出来る。確信が有ろうとも学び続けることももちろんのこと。

興味を持った人に普遍的、半永久的に題材を与え続けることが出来る。

歴史に普遍性なんてものがあるかは知らないが、誰にでも門戸を開いている

答えを示せと問われることも無ければ正しさを教えてくることもない

実学とは真反対の性格を帯びているからこそ様々なものを産みまた壊し

批判され、賛美され、検証され、評価され、人々の間でもみくちゃにされて擦られ続けても、そこにあり続ける。国家や人々の歩みと共に。それは存在価値云々の話ではなくあると感じることもできるし、ないと感じることもできる、人の価値観や考え方の中に在るというだけ。

 

 

ただ人一人と違うことは、国家と違うことは滅びることもなく常に評価され総括されることがないために何時だってどんな時代だって賛否が沸き起こる。人が死ぬときに本当の気持ちが分かるっていうのと同じじゃないかと。生きてる間に自分の人生が順調だと言えるのは、いつだって今がどうかっていうのが軸だから。

 

歴史について賛否善悪可否を問うのではなく、歴史の流れの中から自分がどう生きて行きたいかどう振る舞いたいかを 今

考えるためだけに使えばいい。

 

 

今歴史が起こしている賛否は良くも悪くも利用されているだけの物に過ぎない。