「春馬は硬い、だから駄目なのだ」というタレント仲間の評が意味することは | ame1810のブログ

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 先日、偶然、三浦春馬さんの私には意外と思われるツイッターを目にした。

そこには、「僕は仲間から、 硬い、だから駄目なのだ、と言われる」。「でも、硬くてもいい、それが僕なのだ」と書かれていた。わたしはこの意味を考えて、そして悟った。

 事務所所属のほぼすべてのタレントは、事務所の体制には、たとえそれが間違ったことでろうと従順に従い、事務所もまたそれを当然のことと受け止めるのだ。しかし、春馬さんは違った。間違ったこと、不正なことは許せなかったのだ。特に結果的にその不正に自分が加担していることになる場合には。例えば、約20年も続いたチャリティイベントの莫大な収益金が本来の使途に使われたのはほんの一部であり、あとの使途は不透明であったこと。彼は海外の貧困状態にある不幸な子供たちを救うためだと思い、誠心誠意積極的に活動していたのだ。

 事の真相に気づいた時の彼の失望と怒りは大きかった。なんとしても不正を正しかった。子供たちを救いたかった。しかし、彼がそのことに拘ればこだわるほど、事務所との関係は気まずいものとなっていったのだ。

 春馬さんは天性的に優しく、他人の想いには敏感であった。自身の演技でも繊細な感情表現がとても自然で上手かった。語る言葉も慎重で想いがこもっていた。

 では、春馬さんのどんな面に対してそのような「硬い」という評がなされたのだろうか?

 それは、自分が正しいと信じること、あるいは大切に思うことに対する彼の一途の想い、たとえ自分がそれによって不利益を被るということがわかっていても譲れない一貫した姿勢に対してのことであろうと思われる。

 彼はそんなことで20代の半ば頃から、所属事務所から冷遇を受けていたらしい。他のタレント仲間のように、事務所の体制に逆らわずに活動していたならば、一番の稼ぎ手として厚遇されていただろうに。因みにもともと彼は「金」には興味がなく、興味があったのは俳優として頂点を極めることであったのだが。

 彼は自著「日本製」にも込められているように、類まれな日本の伝統を素直に愛する「日本人魂」を持った男であった。武士道にも通じる日本の美しい精神性に引き付けられていたのだ。

 真っすぐな彼の存在が邪魔になってきた事務所の様々な圧力や嫌がらせからか晩年の春馬さんの姿はすっかり疲弊してしまっているようにに見えた。にも拘らず、彼の演技は素晴らしかった。不本意な役どころではあったかもしれないが、最後まで俳優として見事に演じきっていた。

 彼の役者人生は短かかったが、類まれなほど密度の濃いものであった。作品において彼は永遠の輝きを放っている。