こんばんは。
せぎ ひろちか(瀬木寛親)です。
高祖父で長州藩士「粟屋貞一」の残された土地を訪ねようと、家族で萩に行って来ました。
母方の高祖父。粟屋貞一です。昔から「ひげのおじいさん」と呼んでます。
長州藩台所頭を務め、毛利敬親の時代に幕末を迎えます。
幼少期僕を育ててくれた祖母から自身の祖父である粟屋のことは繰り返し聞いてます。
僕の「寛親」と言う名も高祖父の藩主であった「敬親」にちなんだとも言われてます。
祖母と檀家の住職が相談して命名したんだそうで・・・
意味は「寛大であれ」「親しまれよ」です。
「独創力は持たなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それに生まれつき恐ろしく寛大であった」
これはよく揶揄される毛利敬親評です。
11才も年下の吉田松陰の才を評価して重用し、自ら松陰の門下になったと言うエピソードが何より敬親を表していると思います。
さて話しを高祖父に戻します。
廃藩置県後は上京し内務省の官吏に就いていました。
その後貧窮した士族の救済のため毛利元徳より蝦夷地開拓団団長に指名されます。
筆舌に尽くしがたい苦難の道だったと思いますが、現ニッカウヰスキーの敷地となっている付近、余市川流域を多くの長州藩士を率い開拓します。
その後の足跡をいろいろ調べる中で流域の赤井川村で村政に関わるご夫妻とも知り合いました。
そのご夫妻から粟屋が開祖として尊ばれていることを聞いた時、子孫として語り継いで行かなければならないこと。決意を新たにしました。
粟屋家の残された萩での敷地。約300坪です。
引継いだ萩での子孫の方が管理しており、左奥に明治になって建てられた築100年程の住宅があります。
まだまだ大切に住居として利用されてました。
粟屋と北海道の屋敷で育った祖母。
その祖母と暮らした者も今回案内してくれた、娘である84才の叔母と孫である僕の2人だけになりました。
明治維新から随分あとのことではありますが・・・
「日本」と言う国の夜明けのため北海道に渡り、ヒグマの闊歩する原野を人の住める街へと作り上げて行った高祖父は「志士」であると思います。
明治45年春、郷里萩市に帰郷。
しかしその翌年、既に70才の年齢で朝鮮京城に移住。
鰻漁場の経営に取組み、朝鮮産業発展について画策。
多くの夢を抱きながら志半ばにして大正2年(1913年)亡くなります。
今年が没後100年の粟屋貞一。
日本の国の形が変わって行く過程で・・・
こんな「明治の志士達」の物語もあった。
僕の娘に、そして子々孫々に伝え続けて行きたいと思います。
Boys, be ambitious
せぎ ひろちか(瀬木寛親)