むかし学生の頃に差別問題のサークルにも属し、
被差別部落出身の人とも会ったりした。
卒論では被差別民の歴史についても調べた。
被差別民としての芸能民のありかたについて考えることもあったし、
アウトローの立場や意味についても自分なりに推測することもあった。
出版社に入ってからも多くの差別的表現に関する本を読み、
自分なりに理解を深めている。
ただ単に差別語や不快語と指定されている語を避けるだけでは
何の差別意識の解消にもつながらないと思っている。
(何も考えずにデリケートな言葉を疎外する編集者も多いけどね)
だからぼくは、差別的だとレッテルを貼られている表現に関しても、
遠ざけることなく、意識的に言及することがある。
例えば、バカチョン(カメラ)という言葉は韓国や朝鮮の人に対する
差別的な言葉だとされているけど、本来は韓国や朝鮮の人はまったく関係が無い。
チョンマゲが朝鮮髷ではなくチョンと頭に載っている髷であるのと同様、
本来は「バカみたいに簡単にチョンと押すだけ(で撮れるカメラ)」というニュアンスの言葉だ。
バカでかい、という表現の「バカ」には「驚くほど」というニュアンスがある。
バカという言葉は必ずしも攻撃的な見下し語ではない。
韓国や朝鮮の人をバカにする意味でバカチョンなどと口にするのは大変失礼で
人を見下すとても残念な行為だけど、
「バカチョンカメラで撮ったからうまく撮れてないかもしれないけどね」
という表現を抹殺するのは、論理的な判断だと言いかねる。
そのうち、バカでかいという言葉すら、刑事(デカ)を侮辱する言葉だとして否定されかねない。
パクリという言葉がある。
ネットを見ると、中国や韓国の人に対して「パクリばかりだ」と見下す人も散見される。
「パクリ」は朴さんと李さんに対する蔑称である、と誰かが言い立てて喧伝したら
中国や韓国の人は、コピー商品のことを朴李と表現するのは自分たちを
バカにしていることだと不快に感じ、抗議してくるかもしれない。
彼らの不快感を取り除くために、パクリという言葉を葬り去るのは論理的な行為だろうか。
まずは誤解を取り除くための努力が必要ではないだろうか。
パクリの語源は明らかに朴李ではないのだから。
朴李の意味だと思い込むのは間違った認識なのだから、それをただす努力が求められる。
だけど、出版社や新聞、テレビの人たちは、パクリという言葉の使用に慎重になるかもしれない。
問題を起こしたくない人が多いのだ。
歴史的事実と異なることを主張されても、きちんと反論しない。
そんな姿勢が、国際社会における日本人の立場を悪くしているような気もするが
日本人がいつまでも意見の主張を避けてうやむやにごまかしてやりすごそうとしたら
そのうち窮地に陥るだろう。
それは自業自得なのだから、その時になって後悔しても遅い。