山杜鵑~渋民日記~‘楽人’啄木 | 愛唱会ジャーナル

愛唱会ジャーナル

廃止されたYahooブログ「愛唱会きらくジャーナル」から改名移設
歌曲、唱歌、童謡、オペラ・アリア、合唱曲などを楽しむグループ
外国曲にも積極的に取り組んで、脳の老化抑制を期待する  
 tnryamadabss@yahoo.co.jp          

北国の‘さくらの会’のレパートリーに「山杜鵑」がある。石川啄木の同名の12行詩に益子九郎が作曲したもので、『国民歌謡第41輯』(日本放送出版協会 1939年刊)に収録されている。
 
啄木没後99年の今年はいわゆる百回忌に当たる。これほど昔の人の文学作品だと、ディジタル・アーカイヴで自由に利用できることがある。
 
検索したところ、「山杜鵑」は 詩集『黄草集』に澁民村小吟4篇の3番目として発表されていることがわかった。ある解説に、‘明治三十九年(1906年)34日、石川啄木は一家を携えて故郷澁民村に移り住みます。懐かしい故郷を歌った詩 4篇です。’とあった。
 
    澁民村小吟
    丙午王春三月四日一家を携へて故山澁民村の住人となり
    ぬ。永く生活の苦闘と沈欝なる不健康に沈湎したるの身、
    今なつかしくも追懐多きふる里に隠れて、静かに心の技
    に立ちかへる春を樂まむとする也。
 山杜鵑
若芽柏の木の間の
下暗たどり來ぬれば、
遠方 ( をちかた )小角 ( くだ )の音ぞする。
垣朽ちし古牧の
夕月てらせる草の上に
黄牛 ( あめうし )しづかにまろべり
落ちてゆく月の丘邊に
牧の子ひとり走れり、
鞭のひびきをきけるや、
牛皆起ちて啼きぬ。
ふとしも木の間に聲ぞ騒げ、
山杜鵑の名告 ( なの )るや。
               (四月二十日夜)
この頃の彼の日記が「渋民日記 明治三十九年日誌」として閲覧できる。
 
四月十八日~二十日。」の項に、
 
朝は七時に起きて、毎日教壇に立つて居る。児童幾十名の性質など略ゝ解つて来た、放課後はテニス。
 十九日の夕べ、ソネツト『春月』の一篇をえた。
 二十日の朝、鉄幹氏が大学病院を退院する報知。薄田泣菫氏が上京中との事。岡山の瀬川藻外から、北村季晴作の叙事唱歌「須磨の曲」「露営の夢」「離れ小嶋」の正本を送つて来た。夜、小曲、『友藻外に』『山杜鵑』の二篇をえ、『春月』と共に鉄幹氏へ手紙を添えて送つた。
 
と記録されている。
 
この前後の日記をさっと読んだところ、彼がオルガンやヴァイオリンを弾いたり、楽譜を写したりと、音楽にも親しんでいたことが判り、急に親しみが増した。イメージ 1