D N Aで分かるまで。<37>
これが正しい<37>でした。「嘉右衛門」(山崎闇斎)の発見が衝撃だったため、ひとつ飛ばしてしまったようです。ほぼ間違いなく、<36>までを経てようやく辿り着いたようだと、いま思っています。残されているのは<D N A>のみと。
なので、少しばかり場面を変えてみたいと思います。
「御神楽岳」から初めたいと思います。というのも、「会津」における「デルタ」(Δ)の発見が、この山でもあったからです。会津若松市の米代一丁目、そこは、天文台(日新館)や新島八重や山本覚馬が住んでいた屋敷と目と鼻の先ですが、そこを基点に2万分の1の地図を広げたところから会津と自分探しの「旅」は始まりました。
東に「大塚山」、そして西に「御神楽岳」、その北緯37度30分のラインを引くことができた、そのことが、より深く古代史や天文学への興味を持たせてくれたのだと思います。
「御神楽岳」、以前伊佐須美神社に関連して、ここの宮司をなされていた轡田さんから聞いたジンクス、つまり「この山に登った宮司は、すぐにこの神社から転出される」という話を述べたことがあります。この神社が祀る御神体はまさにこの「御神楽岳」ですから、無碍にできるジンクスではないと思いますが、最近になって、気がついたことがあります。
「御神楽」は、「天岩戸」と同義では、という疑問です。「会津」の地名由来を、古事記や日本書紀では、「大彦命」と「建沼河別命」が「相津」で出会ったからとしていますが、社伝では、二人は出会いを喜び、この山で「宴」を催したとしています。
その「宴」こそ「天岩戸」の前で催された「神楽」ではなかったのでは、と。
そして、ここ会津の伝承では、この地の神々が降りてきた順序について、明神ヶ岳→博士山→御神楽岳としています。
これを河沼郡金山町出身の「星源考」氏から聞かされたのは、もう50年も前になるでしょうか。(「バッケ」もこの人から)
しかしほぼ12年前、早起きが好きで「熊守り」人だった友人から、夜明け間際に、会津盆地の真ん中に立って東の空を見てみると、日の光が照らすのが明神ヶ岳、次が博士山、そして御神楽岳なのだと聞かされました。
それを聞いて、やっと「会津人」になれた、そんな思いがしたものです。
月と太陽とがその役目を入れ替わる、日々のドラマを演じて止まない山、「御神楽岳」と言いたくなってしまいます。
「神々の」、「神様たちの」という神話から、それらを普段の天文現象へと認識を新たにすることが可能ならば、「史説」(造語)もまた、天文現象に転換することも可能かも知れないと思い、「大彦命」と「建沼河別命」とを天体に、つまり星々になぞらえてみたのです。
記紀ではどちらも「男」ですが、記紀を持たない会津では「男」(大彦)「女」(建沼河別)と見なすことが可能です。そして男→「太陽」、女→「月」と。そして、「大彦」は「古四王」に「建沼河別」は「沼河姫」にと、連想を働かせることは、「越国」の住民の特権と言えるのではないでしょうか。
という、連想に連想を重ねて、たどり着いたのが次に上げる記事(論考)なのです。
2010年の国立天文台報に掲載の「『天の磐戸』日食候補について」です。
ここから、248年9月5日の天文現象を図示したものを抜粋して上げてみます。
「ΔT」とは、地軸のわずかなブレ現象で、それによって起きる地球自転24時間に対しての時間差(誤差)を表しているとのことで、Δ7,300秒は約2時間ということになりますね。
これより(2010年)以前に、東京天文台(国立天文台の前身)に勤めていた「斉藤国治」は、「古天文学への道」(1990年刊)という著書の中で、次の図を示していました。
両者における最も異なる部分は、史書と科学的(天文学的)データをのどちらを優先するかという態度です。
このAD 248は、卑弥呼の没した年とも見なせる重要な年ですが、斉藤は、この天文データを看過することはできず、困惑した面持ちで文章を閉じていますが、先の論考は「史書」に配慮するあまり、先輩の上げたデータとともに「AD248説」を捨象してしまっています。
「卑弥呼及び邪馬台国」における九州説や畿内説では、卑弥呼の時代において起きた天文現象(日食)は説明できないのです。
それで、助けになるかどうかは分からなかったのですが、アウトロアーツ社の「ステラ・ナビゲータ」というアプリを動かして、位置を「飯豊山」におき、AD248.9.5と「暦」を入れて表示してみたのです。その結果を示します。
Am 5:15に東の方角から太陽と月とが顔を出し始めています。
Am 5:55 の太陽と月との位置です。そして、それからほぼ2時間後の空が、、、
am8:37にはこのように表示されました。
なんと、「ヤマト(山都)」の真上でも、「皆既日食」を見ることができたようなのですが(S Nアプリは「Δ」関数を取り入れているかどうかは分かりませんが)、これら三者を見ても、確実にこの位置(飯豊山)で日食が見えたことは理解できると思います。
ただ、この日は雨天、もしくは曇天だった、とだけは言わないで欲しいです。
もはや、天之手力男神(あめのたぢからおのかみ)の力を借りて、九州からそして畿内から、「卑弥呼」をここ会津に引き戻すことこそ、「越(星)の民」の使命なのでは、と思えてきます。
(沖縄にいたアイヌの人々が、北海道まで北上する途中、「会津」を通過した際に地元の人々に、山々に棲む動物の狩猟法あるいは川の魚の採取法を教えたりして生活していた名残りが、会津にはあります。金田一京助や武田泰淳の影響力は大変強いので、沖縄アイヌの足取りを追いかけないと出てこない、生きた言葉は、埋もれがちです。「本名御神楽」はその名残りの一つで、ホンナイが小さいという意味のアイヌ語で、御神楽岳は双頭峰の山でその頭ひとつ低い方をそのように呼んだと思います。アイヌ語辞典には出てこなかったと思います。)








