D N Aで分かるまで。<38>
「タコ焼き」も会津だが、「辛子明太子」も会津(会津藩士末裔)です、と言ってみたくなりました。
りまりま さんの
『【星の民】A・IZU 会津 海洋民族・サカ族と古墳 サイノカミになった古墳の被葬者』の記事に触発され、そこに転載されていたTOLAND VLOGも見せてもらいました。
まだ、とても整理がつかないのですが(頭が追いついていかない)、、、。
とは言え、「釈迦族」については、昭和60年頃に「東洋文化財研究所」を立ち上げ、その設立目的の一つに「ネパール・ルンビニ」での発掘調査という目的があり、それを実現できずに終わったという「痛みの歴史」がこの神経を震わせてしまったので、その傷口の診断を仰ぐつもりで、絆創膏を取ってみたいと思います。
まず、「坂」に関連して、「写真」を見て欲しいと思います。りまりまさんの一連の考察を辿っているうちに思い出したものなのです。
「古来神殿に伊弉諾、伊弉冊二尊の立像あり。一木に二尊を刻む。人身鳥首、長嘴大耳、両頭相交り、手を以って愛抱く。長さ四寸八分。三月二十五日祭礼也。」―会津風土記 :風俗帳 巻一(寛文風土記 ―1661年〜1673年)
保科正之の晩年に書かれたものですから、この時は未だ誰も、「象」を見た者は国内にはいなかったと思われます。なので、「人身鳥首、長嘴大耳」となっているのだと思います。飛鳥時代に遡るしかない「像」?
これは風土記では伊佐須美神社の神宝として記されていますが、この写真は会津坂下町にある立川寺の「秘仏」として「町史」には掲載されていました。
(日本国内で初めて象(白象)が見られたのは徳川吉宗の享保13年(1728年)だそうです。)
そして、会津坂下町にある「気多神社」の「虹梁(こうりょう)」の両端にはなぜか「象」の頭が、飾られているはずです(手元に写真がないので、記憶です)。
象はインドの象徴であり、さらには「ドラヴィダ族」の象徴でもありそうです。
ちょっと逸れますが、先ほど紫姫さんから「リブログ」を頂いていて、そこにはたこ焼き・会津屋遠藤留吉氏とは一字違いの遠藤谷吉君が書いた書籍の写真が掲載されていました。
再読はしていないので、詳しくは言えませんが、彼は、「邪馬台国」は「山都」(喜多方市山都町)と、比定した根拠の一つに「海流」を上げていたことを覚えています。精度の高い論証方法でもあったので、もっと多くの人に注目して欲しいと思いました。
魏の使節団の「対馬」からの道程を、その海流を使って「会津」まで辿りつけることを論証したのです。とても斬新な視点でした。
ちなみに彼は高校の同級生です。磐梯町役場の職員でした。卑弥呼の墓の位置を<当てっこ>したのを覚えています。
時代は降りますが、会津でインドと言えば「東山」、東山と言えば「鶴井筒」、ご存知ありませんか? 蕎麦屋さんです。ここ、もとは東山温泉旅館に併設されてあったものなのですが、それを現在の場所に移築した古民家そのままのお店なのです。さらには、大変な秘仏達を「秘蔵」している蕎麦処です。現在は「ネパール博物館」と銘打っておられるようですが、蕎麦は、開店当初から今日まで、本郷焼きの陶器にのせられて運ばれてきます。なかなかの名品揃いです。
秘蔵されているのは、ほとんどが「歓喜仏」と称されているもので、その姿は「仏様」とは千里の径庭も離れていて、理解することが困難極まりないのです。
ですが、一度、上海で新彊ウィグル自治区から来ていた姉妹の踊りを見る機会があり、驚いたことに、それはまるで「歓喜仏」そのものだったことがありました。シッダールダがこうした「生きた歓喜仏」に囲まれて育ったとしたら、それを捨ててまでの「悟り」とは一体何だったのか、今でも、難問中の難問と言えると思います。
そんな「難問」を抱えながら、あの「三鈷杵」を考えたことがありました。
慧日寺(磐梯町)の「徳一」が所持していたとされる「白銅三鈷杵」は、「高寺」ゆかりのものではないかという、推定です。一度調べてみたのですが、国内にある三鈷杵の中では、最も古いという判断で、金属の同体分析はできませんでしたが、中国の<大同>年間に作られたもののよう、との想定をしています。正倉院のものよりは、ずっと古いものです。
そして、徳一はこの国の<大同>元年の磐梯山噴火の後に会津に入ったとされています。
この三鈷杵、それこそインドはシヴァ神の持つヴァジュラに由来しています。
インド僧「達磨」も「梁」にまで来ています。蕭衍(武帝)とも会っていました。
会津に仏教をもたらした(僧がもたらして初めて「仏教伝来」と言えるので、日本最初の)僧青巌は、およそ彼から千年前の「釈迦族」の末裔だとしたら、「塞の神」も彼なのでは、と思いたくなります。
かつて毎年正月十五日には、家の裏庭で近所の人とこぞって「塞の神」を催していたこと、思い出しました。
ある意味で、古々都「奈良」は水上都市です。もともとは「会津」も水上都市なので坂下の『舟』は、グサリときます。すっかりいまは、りまりまさんの<「坂下」(サカシタ)・ポスチュレート>に染まりはじめているのかも。
と、「滝沢坂下」には驚きました。何故って、滝沢には「躑蠋山甲」(地名)があるからです。おそらくこの山には古墳があって、そこに祀られているのは女性であり、「姉」だったようなおぼろげな記憶が残っています。
しつこいですが、甲があれば乙があり、つまり「乙」の「妹」と共に姉妹に関わった伝承を持つ古墳があったはずですが、その記録がなんだったか思い出せません。
堂ヶ作山古墳が気になります。
