D N Aで分かるまで。<39>

 

そりゃ悩むよ。でも、こっちを先にした。

 

 何せこれは一昨年、特別に許可をもらって撮った画像だが、僅かにW E Bででもつながっている、<選ばれた>人たちにはどうしても見せておきたい画像なのだ。しかも、文化財専門員に見せても、求めた措置が何一つ得られなかったものだ。

 

    鶴ヶ城のお稲荷様に祀られていた御神体、「荼枳尼天」(ダキニテン)。

         (一日でも早い修復が待たれている)

 

    

 

       「荼枳尼天(ご内密に 限定公開)

 

 

 戊辰の役で落城する際に救出されて、いまは甲賀町の「鶴ヶ城稲荷神社」の御神体だ(箱書にもそうか書かれている)。そこには、鶴ヶ城内の「稲荷明神」が正一位の「神階」を受けた際のご由緒書もある。

 

 この鶴ヶ城、もとは、伊達政宗に追われて逃げた蘆名家の居城とされているが、ちょっと待って欲しい、もともとは蘆名家の筆頭家老「松本」一族の「城」のはずで、佐原氏の末裔が乗っ取り居座ったに過ぎないもの。「会津四家合考」を読めば想像がつく。

 

 この「荼枳尼天」、会津若松市などの観光案内では、「鶴ヶ城稲荷神社の御祭神」は<宇迦魂命(ウカノミタマノミコト)>と謳っている、その御霊(みたま)が象られたもの。

 

 ということは、「鶴ヶ城稲荷神社」は「慶徳稲荷神社」そのものということになる(新編会津風土記)。慶徳稲荷神社は、伏見稲荷大社より源義家が勧進した神社とされている。

 

 「九尾の狐」と言えば、「玄翁和尚」。その和尚が復興したのが、熱塩加納村にある「示現寺」で、さらには「慶徳稲荷神社」のすぐそばにあるのが、和尚創建の「慶徳寺」。

 那須の「殺生石」に潜んでいたのが「九尾の狐の精霊」であり、その邪悪な御霊を払ってあげたのが(諭す)、「玄翁」さんなのですが、なんとその「殺生石」ならぬ「玄翁石」があるのが、猪苗代町「土田(はにた)村」。

 

 保科正之の「土津(はにつ)神社」の「ご領田(御田)」としての部落。そこに巨大な石があり、「玄翁石」と呼ばれている。

 

   

 

       玄翁石

 

     

 

 

 でも、これは間違いなく「天文石」と主張してみたくなるほどの巨石で、その祭祀跡を証するほどの巨石(弁慶の硯石)が近くに転がっているが、これと一緒に検討することが、現在の私たちの真の課題だとは思うのだ。

 

   

 

      奥が「弁慶の硯石」

 

 ともあれ、九尾の狐は、曹洞宗の布教には欠かせぬ(必須の)妙題(テーマ)で、宗教、特に仏教(禅宗・曹洞宗)というものの他の信仰に対する「レーゾン・デートル」を庶民に示す格好の「説話」だったのでは、と思える節がある。流石に「公案」では難しい。

 

  玉藻鎮石?

 

 実はこちらも「物部復権派」なので言いたい、(あ)ったんだよな〜、と。

 

 猪苗代湖畔の縄文遺跡、とんでもなくでっかい「勾玉」が出てたんだよな〜、アレ、どこに行っちまったんだろ? と。

 

  

   ブログ 風と土の記録 「落ち延びた姫君~会津物部伝承~」(200807/29)より拝借

  

  饒速日守屋も、負けると会津に逃げてくる、なんでだべ?