D N Aで分かるまで。<42>
さすがに「日本」とは古い国だ、なんてひとり勝手に納得していたのは、もう30年も前になるだろう。初めて皇居の中にある「宮内庁」を訪れた時だ。
たまたま時間があって、それまでは行ったことのなかった省庁に「宮内庁」があり、思い立ったが吉日とばかりに訪問してみたのだった。坂下門には検問所があり、他の省庁にはないバリケードが設けられていた。誰何された。
いろいろ言い訳のようなことを言っているうちに、職員が迎えにきてくれ、無事庁内に案内してくれた。
大蔵省(当時)も相当に古いままの官庁だったが、それ以上に「歴史」いや「昭和天皇」その人を感じさせるたたずまいだった。
事務室に通されたのだが、そこにある事務机や椅子その他のものは、全て木造のものばかりで、スチール製のものは何一つ置かれていなかった。どの省庁にも見当たらなくなって久しい、「戦前のまま」という印象だった。
応接間(大広間)というところに通されて、しばらくの間待たされたのだが、窓には全て重厚そうな年代もののカーテンが下されていて、まさに明治時代の雰囲気を味わうことができた。
しかし、思うところがあって、錦糸銀糸で彩られてはいるが、さすがに古さを隠し切れないでいる椅子の下を覗き込んでみた。
布が破れて、スプリングが顔を覗かせていた。それを見て確信した。この国は捨てたもんじゃないぞ、と。ある意味では、ここだけが真の「日本国」だった。
ここ「宮内庁」の本当の「主人」の意向が色濃く反映されていて、微動だにしていない、そんな感触を持つことができた。
大理石でできた階段が、あれほどすり減ってしまっている官庁を見たことはなかった。おそらく、これからも見ることはないだろうと思った。
そのことが縁でその後「東宮」、すなわち「皇太子」の御所に何度か訪れる機会があり、そこで初めて「魏志倭人伝」に出会った。
名刺には「大夫」と書かれていた。初め歌舞伎などに出てくる〇〇太夫(だゆう)かとも思ったが、どうやら「たいふ」と読むらしい。思い出した。あの大夫(たいふ)難升米だ。
名刺の御仁は、もと外交官であり隣国で「日本国大使」を務めた人であった。
卑弥呼の使いで大夫難升米が魏に朝貢したのが景初二年(238 年)六月と「倭人伝」にはある。漢の時代から朝貢は行われていたのだとすれば、二千年の歴史を持つ、いまも変わらぬ役職ということになる。そんなことを、思わぬ場所で発見した。
そんな思い出のある魏志倭人伝だが、いまここで探し求めている248年の「皆既日食」は残念ながらそこには全く出てこない。
漢文を全て原語で読みあさった荻生徂徠が、「天岩戸」を「日食」と言い、そして倭人伝にあるたった二文字の「以死(もって死す)」を「卑弥呼の死」と結びつけたかどうかはわからないが、未だ解決を見ていない事件ではあるのだろう。
ただ、「卑弥呼」はその呼び名から「日」の「巫」(かんなぎ)を意味することは明らかであり、その「死」が、何よりも「日の出のない日没」(日の消滅)と同等の意味を持っていることは、現代人ならいざ知らず、また荻生徂徠によらずとも、明白すぎるほど明白で疑問の余地はなかったことだと思われる。
その「日食」を検討することが、卑弥呼の存在を確認し、さらには「邪馬台国」(邪馬壹国ではなく)の存在を特定すること、どちらかといえば後者にこそその目的が隠されているようにも思われる。
先の日本天文台の日食論考(2010年)の翌年には、追っかけ、改訂版が出されており、そこには西暦247年の魏の国の「洛陽」における日食記事が主要なテーマとなっていた。その頃の日食記事は、「魏志」か「晋書」によるしかなく、確かな「ΔT」の値を求めるためには、これらの記録をもとにするしかない。
ステラナビゲータでは、魏の時代の「洛陽」では、西暦247年3月24日午後4時30分頃日食は起き初め、午後5時27分頃<皆既>に近い状態になったものの夕焼けの状態は続く。
洛陽 午後5時頃 <月を強調してみました>
しかし、北九州(太宰府天満宮)上空では、午後5時39分から始まり、6時30分には皆既に近づくと同時に日没を迎えてしまう。
この頃の魏は、皇帝には曹芳(そうほう)が在位してはいたものの、擁立されたままの状態で、実権は司馬懿(しばい)や曹爽(そうそう)が握っていたとされ、すでに対立が起きていた年(247年5月)でもあり、<倭人伝>の邪馬壹国の記述にもその政変がそのまま投影されているように見える。
そして、卑弥呼の死以降には「暦」が記載されていない。この魏の政変が、そっくり狗奴国と邪馬壹国との争いの火種になったとしても不思議ではない。
この卑弥呼の死は、邪馬壹国においては天変地異に直結した大事件だったから、「古事記」や「日本書紀」には描かれている、「天岩戸」として。海の向こうの出来事ではなかったはずだ。
247年の「日食」は日没前(日中双方ともに)であり太宰府近辺(邪馬台国)では夕焼けはそのまま続いているが、248年のそれは、会津若松・柿本稲荷神社(邪馬壹国)では、しっかり日の出真っ最中の“ブラックアウト”である。


