D N Aで分かるまで。<43>

 

 「倭人伝」の原文が気になり、「倭人伝を読みなおす」(森 浩一著 2010年刊)を探したら、その「原文」(全・漢文)が上げてあったのですが、その終わりに「追記」として、『九行目の邪馬壹国のは、臺の減筆文字であり、一八行目の<※1>はの減筆文字とみられる。』と記されていました。

    

  <※1>は という文字です。

 

 この「倭人伝再読」原文は、乾隆四年の欽定二十四史からのもので、乾隆四年は1739年にあたるものですが、先にブログ<42>に上げた倭人伝は慶元本/紹熙本といわれるもので1195年から1200年の間に書かれたものです。500年以上の差があります。

 

 そして、そこにははそのままとして書かれ、同じくとして書かれています。(<42>参照)

 

 これはまずいです。(A)は(略字A′)になっても(B)には絶対なりません。逆もまた真なりで、にはならないしまして「」(B)は略字です。 

(A =A′, A≠B ,  B=B′, A≠B′)

 

 第一級の考古学者が、これはいけません。他の第一級の学者達も、とその「減筆文字?」「台」を援用し、卑弥呼以来の日本史研究を狂わせてきてしまいました。

よって、もう一度「邪馬国」ならぬ「邪馬国」を俎上に上げて検討することが求められていると思います。

 

 ブログ<42>ではあげることのできなかった画像を上げておきます。 すべてW E B上に掲載されていたものです。

 

 どうしても、倭人伝の「正始八年」の、西暦では247年日食が気になって仕方がないからなのです。

 日本では夕焼けとともに沈んでいった九州地方での不完全な日食と「卑弥呼」。

 

 とても天岩戸の神話にはなりません。神話では<岩戸>は一旦完全に閉まってしまうのです。この日本天文台の天文データでは、建て付けの悪さが目立ち過ぎです。

 完全密閉は、<248年>を待つしかありません。

 

  

   魏・洛陽位置

 

   

   漢魏故城遺址 ( ALA ! 中国  )

 

   

  洛陽漢魏故城永寧寺遺址  中国 Henan, Luoyang, Yanshi, 310国道邮政编码: 471013 

  (北緯34度43分10秒 東経 112度37分5.80秒)

  

 

 <42>の「倭人伝原文」(紹熙本)は安本美典が取り上げており、その彼も参加した日本天文台の2011年の日食研究論考では、

<『三國志』巻四 魏書四「三少帝紀」>を引用して「正始八年春二月朔日有蝕之.」とあり、さらに<『三國志』巻十四「程郭董劉蒋劉伝」>からも、「是時,曹爽專政,丁謐,眷菫等輕改法度.會有日蝕變,詔羣臣問其得失, 濟上疏曰」

 

 (訳: この時代,曹爽が政治権力を一手に握り,丁謐・眷菫らが法律・制度を軽視し改変した.たまたま日食という大変があり,群臣に詔勒が下ってその意味について質問があった.蒋濟は上奏して述べたー安本美典―)と引用しています。そしてさらに、晋書の「濟旨譬甚切,而君臣不悟,終至敗亡.」(訳:不吉な日食に正しく対処しないと国が亡びることもあり得るー安本美典―)をも引用しています。

 

 「正始八年春二月朔」を西暦換算で247年3月24日としています。

 

 これに従って倭人伝を読むと、日食があった時から(日食があってもなお 「卑弥呼が死す」直前までは、魏の「暦」はしっかり続いていました。 

 

 

 この論考では、日食が起きた時間帯(日の出から日没まで)が明示されてはいません。また、「正始九年正月乙未朔,日有蝕之.( 晋書,宋書)」のデータ(西暦換算で248年2月12日)を「ステラ・ナビゲータ」で照合したところ、「」はか細い下弦の三日月状態で、やっと見えるくらい、14日には新月になってしまうようです。とても日食は期待できませんでした。

 

しかし、正始九年はまさに会津皆既日食が起きた年です。なぜ日本天文台はこれを無視するのでしょうか。

 

 

 WEB<邪馬台国の会・『三国志魏志倭人伝』について(永井記)>に

3.『三国志魏志倭人伝』に、「卑彌呼以て死す」の年次は記されていない。また最後の「壹與の朝貢」記事にも、年次が付されていない。

ところが『日本書紀』の神功紀に、「『晋書』起居註によれば、秦始2 年(266 )、倭の女王の使者が朝貢した」との記述がある。『書紀』の編者は、『晋書』の起居註を持っていたのである。この『晋書』の起居註が、中国に現存するか否かは、私には確認できていない。

魏は265 年、西晋に禅譲しており、壹與はこれを知って翌266 年、西晋に朝貢したのであろう。陳寿が、年次と晋の国名を伏せてまで、あえて、「壹與の西晋への朝貢」を以って、『魏志』を締め括ったのは、「東夷の王・卑弥呼の朝貢する 」 と、「東夷の王・壹與の朝貢する(魏から禅譲を受けた)西晋 」 こそ、「天命を得た王朝である」と主張するためだったからである。(『古代への扉』 永井正範)

 

と、こちらの疑問を見透かすように書かれていました。

 

 特に原文「卑弥呼以死大作以死」を、「すでに死す」と読み、また「以って死す」という二通りの読み方が邪馬台国論争の火種ともなっています。これも一種の漢文の「和文化」の弊害です。

 「以死」はいまの中国語では、ただ「死す」というだけの意味です。「以」「以」の「上下」を「」に当てただけのことです。

 

むしろ「これより上」「これより下」で境界線そのものを表す文字だと思えます。

 

 つまり、そこで一旦「」は閉じられた、というようには考えられませんか。

 

 皆既日食と卑弥呼の死は、太陽の死であり歴史の死でもあったというふうに。

 

 魏邪馬との歴史は一旦閉じたのだと。それほどの大事件で、その意味は魏にも十分なほどに伝わってはいたと、思えてくるのです。