若狭彦神社・若狭国一宮(小浜市) | 神社ぢからと寺ごころ

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寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

若狭姫神社とこの若狭彦神社の記事で書きたいテーマがあったのですが、若狭姫神社で半分どころか書くのを横着したがために、ここでいっぱいかかないといけなくなり、日があいてしまいました。

なんとかまとめれたので書いていきたす。
 
若狭姫神社が鎮座します地名は遠敷といい、『おにゅう』と読みます。

若狭姫は遠敷明神と呼ばれますが、『遠敷』とは『小丹生』であるともいわれています。

『丹』は辰砂のことで、寺社の朱の色をつけるのに使われてきました。

硫黄と水銀の化合物である硫化水銀でして、辰砂を空気中で400〜600 °C に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じ、この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製するそうです。

昔の技法では、金メッキをするのに水銀が必要であり、まず熱した水銀に金を溶かし込んで銅像にかけ、それを火であぶって水銀だけを蒸発させ金を定着させるというものです。

大仏建立において大量な水銀が必要であったのはあきらかで、その水銀を調達した産出地に『丹生』という名がつけられたのでしょう。

そうなると、遠敷(小丹生)明神の送ってくる水とは水銀ではないかという結論に達します。

また、水銀は高温で気化した時が最も毒性が高いそうで、それが水利の悪い狭い盆地で行われていたとすれば健康に対する被害は計り知れず、この時代の疫病蔓延って水銀中毒じゃないのかとさえ思えてきます。

さてさてそれはともかくとしまして、遠敷明神こと若狭姫の夫を祀る若狭彦神社に来ましたよ。

姫神社と同じようなもの雰囲気です。

ゴリマッチョ狛犬

石灯籠

対のやつ。

金石文が珍しいのか、価値があるのかわかりませんが、正直あまり興味ないのです。
こういうブログやってますと、きっちり調べて書かないといけないって義務感のようなものがかつてはありましたけど、カッコつける必要ないなって思うようになってからは、わからんもんはわからんし、知らないものは知らんがなって感じでやってます。

鎮守の森

なんか作法があるみたいですが、やってません。
パワースポットって表現されると萎えるんですよね。


この左右の杉の木が二の鳥居とされてるみたいです。
通り過ぎてから看板見たので振り返る形になりましたけど。

禊の神橋

一際目立つ杉の木に目かいきました。

これ夫婦杉ですよね。

やはりそのようです。
夫婦和合の四字熟語にすぐ目に入ります。

祓所

随神門

こちらにも若狭姫神社と同様に吉祥八人の像が安置されています。

あんまよく見えないんですよね。

こちらも若狭姫神社と同じように好きなタイプの神社ですわ。
苔むしてるんですが、庭師が管理してるような寺院のものとも違うし、廃れてる感じもない、自然な感じなのに境内きれいなんですよ。

この手水もいいね。

ふと目線を上げましたら。

あれ陰陽石ですよ。
説明とかなかったですけど、そうやと思います。

若狭姫神社の陰陽石は来る前から知ってましたけど、ここの陰陽石は知らなかったので、かなり嬉しいです。

神門(中門)

本殿

若狭姫神社もそうでしたけど、西南西の方向いて拝むことになるんですけど、なんでか考えたら、御祭神の彦火火出見の日向高屋山上陵の方角ちゃうかって。


あ、これも書いておこう。


彦火火出見、その父の瓊瓊杵、子の鵜葺草葺不合は日向三代と言われてます。


なので、九州の王朝のような解釈がされることがありますが、僕は全部がそうとは思いません。


鵜葺草葺不合は宮を日向に置いたと思いますが、瓊瓊杵は全国回ってたと思います。


瓊瓊杵命の世のはじまり、すなわち天孫降臨のために大国主が葦原中国を譲ってるにもかかわらず、その葦原中国に降りずに高千穂に降りてるのっておかしな話ですよね。


なんのための国譲りやったんやってことになりますよね。


そこはモヤモヤしながらも古事記なんかを読み進めてたら、瓊瓊杵より前に葦原中国に降りた人がいたことがわかってきます。


瓊瓊杵の兄の天火明ですよ。


天火明も天孫ですから、先に天火明が葦原中国に降りて、その後、瓊瓊杵が高千穂に降りたって考えればしっくりいきません?

そして、瓊瓊杵の御子の彦火火出見が何故、若狭で一宮になるほどの神社で祀られてるのかってことも考えてみますと、彦火火出見の最初の宮は滋賀の北部と若狭あたりだったんじゃないかと思えてきます。

なので海幸山幸の物語は若狭から始まる物語となります。

で、なんでそこが始まりと推測すかと言うと、古事記では高千穂に降りたのにそのあたりのことは書かれてなく、いきなり猿田彦と出会うでしょ?

猿田彦と出会った場所は琵琶湖西岸の鵜川です。

日本書紀だと鹿児島沖合であるといわれる笠狭岬で事勝国勝長狭という人物に会い、国を紹介してもらってます。
 
この事勝国勝長狭が誰かというと塩土老翁とされています。

だんだん言いたいことわかってこられましたかね?

瓊瓊杵と木花咲耶姫の子の三人は古事記と日本書紀では異なっていて海幸彦なんて、古事記では火照命ですし、日本書紀では火闌降命でして混乱の元になってますので、ここでは海幸彦と表現するとして、海幸彦の釣り針を紛失した山幸彦(火遠理命 のちの彦火火出見尊)を龍宮に案内するのが塩土老翁です。

また出てきましたけど、瓊瓊杵の時には九州から滋賀に案内したとも考えられるお話がありますし、山幸彦を龍宮、そこで豊玉姫と出会いますから鹿児島あたりに案内した人物でもあります。

僕は山幸彦が釣り針を紛失したのは若狭か琵琶湖だと思ってますので、九州と北陸の航路を塩土老翁が仕切っていたんじゃないかと思います。

まだまだ考察は続くのですが、終わりが見えないので、今日のところはやめときますが、彦火火出見は豊玉姫と出会い、鵜草葺不合が生まれますが、これは今の宮崎あたりで生まれ育ち、宮を建てたと思います。


そんな鵜草葺不合尊を祀る若宮神社。
またまた若狭姫神社と同じく、しっくりいく御祭神配置です。

若狭国一宮の御朱印
御朱印は若狭姫神社でいただけます。