奄美諸島における住民の軍事動員(9) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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    日本軍が戦闘の際に奄美諸島の女性を動員しようとしたかは、不明な点が多い。だが断片的ながら、女性も軍事動員しようとしたことが判明する。

 沖永良部島では「治療手当ての助手として、女子青年衛生隊を組織し、軍医平井中尉、桑原少尉が生理衛生・伝染病。一般疾病の予防や治療法を教育し、包帯術や担架法などを指導実習させて、各中隊に配属した」(註1)という。各中隊に配属後は各中隊の衛生兵等が助手を命じられて、引き続いて教育を担当した。(註2)女性の召集範囲の記述はないが、学生等に限定したわけではないようだ。

 これに関連すると思われるが、一九四四年八月八日に「本日より三日間、救急法・担架法の講習。高女全員。一部女子生徒全員に対して、平井軍医が指導した」(註3)との記録がある。対象は知名高等学校の生徒全員と、知名青年学校生徒の一部だったようだ。

 女子生徒に対してはこれより前にも看護教育が行われていた。同年六月二九日と七月五日に保健婦が救急法の指導を行っている。(註4)これは緊急時に備えてのもので、日本軍は関与していないようだ。だが女性を動員するという発想自体は、前からあったことが分かる。

 他に加計呂麻島の呑ノ浦では、沖縄陥落後「基地隊員に協力して島の男たちは竹槍を持って、乙女たちはかねての島尾部隊の指導に従い看護婦として戦場に立ち向か」(註5)うことになっていた。集落の女性が看護婦として動員され、それは日本軍の「指導」だったのである。奄美諸島の他の集落の状況は不明だが、陸戦に備えて同様の準備が行われた可能性がある。

 加計呂麻島三浦集落に本拠を置いていた海軍第二二八設営隊も、米軍上陸の際に備えて陣地を構築していた。五月の空襲で三浦基地の地上施設が全焼したのを受けて、「情況変化ノタメ陸戦予備女子班ハ山上陣地へ移動」(註6)した。

 この「陸戦予備女子班」の実態は不明だが、動員・徴用された住民女性の可能性がある。同様の女性は他の部隊にもいた可能性がある。「予備」とあるので戦闘の第一線に立つわけではないだろうが、戦闘時には看護等の業務に従事したかもしれない。

 沖縄戦で中等学校・師範学校の女子生徒が、多数従軍看護婦として動員されたことはよく知られている。太平洋戦争中の奄美諸島には名瀬に奄美高等女学校が、古仁屋に古仁屋高等女学校があった。先述のように大島中学校の男子生徒は通信隊員として動員されたが、女子生徒が軍事動員されたかは明確でない。

 まず奄美高等女学校だが、当時同校の生徒だった西シガ子さんによると、奄美高等女学校では陣地構築への動員等はなく、日本軍とのかかわりもなく看護教育等も全くなかったという。(註7)

 奄美高等女学校の所在地の名瀬に日本軍は、特設警備中隊くらしかいなかった。中隊規模であれば、陣地構築や看護等に女子生徒を動員することもなかっただろう。男子生徒のように、古仁屋の日本軍に動員するということも考えられるが、それはなかったようである。

 次に古仁屋高等女学校だが、一九四三年入学の生徒は二年生になると、「授業以外の奉仕活動が多くなり、須手の塹壕掘りや瀬久井での芋植え、撃沈された富山丸の負傷者の手当て、奄美大島陸軍病院の手伝い」(註8)等を行ったという。これが知る限り同校の活動についての最も詳しい説明である。

 「富山丸」の生存者の看護には、古仁屋はもちろん周辺の集落の国防婦人会員や、学校・役場の女子職員が主に看護に当たった。(註9)「古仁屋高等女学校の在校生も、古仁屋の陸軍病院に運ばれてきた負傷兵の看護や洗濯に動員され、勉強どころではなかったという。(註10)

 古仁屋高等女学校の岩元クニ子さんも、負傷者の看護にあたった。生徒は負傷兵の包帯交換と包帯の洗いが主な仕事だった。生徒は昼になると昼食に家に帰り、包帯や軍服を洗い乾かして、翌日はそれを持って陸軍病院に行った。(註11)

 「富山丸」の生存者の看護を何の経験もない生徒に行わせるとは考えにくい。奄美大島陸軍病院の手伝いを通じて、日常的に日本軍が生徒にある程度の看護教育を行っていた可能性はあるだろう。

 だが沖縄戦上陸後の生徒の様子は全く分からない。古仁屋周辺の日本軍が組織的に動員したという話も聞かない。奄美守備隊のナンバー2である中溝猛中佐の日誌にも、それらしい記載は登場しない。沖縄戦のことを考えると意外な感じがするが、少なくとも奄美大島では女子生徒の組織的な動員はなかったようである。ただし沖永良部島の例を考えると、各守備隊が独自に看護教育を行っていた可能性はあるだろう。

 

   おわりに

 奄美諸島における住民の軍事動員を見ると、沖縄県と同様の軍事動員が行われたことが判明する。防衛隊は沖縄県と同様に各段階に応じて動員されている。本来は苦力部隊だったものが、最終的には戦力として動員されたことも共通している。

 ただ奄美諸島は米軍の上陸作戦がなかったため、防衛隊は常時動員されていたわけではなく、比較的平穏な時期には食糧増産等のために隊員は帰宅していた。このことは沖縄県には見られない奄美諸島の防衛隊の特徴と言えるだろう。

国民義勇戦闘隊は沖縄陥落直後に編成された。こちらも資料は十分ではないが、各地で編成の動きがあったことが判明する。法律の公布直後に編成が始まり敗戦とほぼ同時期に義勇隊が編成される中、名瀬町では、六月三〇日に国民義勇隊編成並びに結成式が行われた。さらに徳之島では七月二五日から国民兵指導者幹部訓練が行われており、地域によって編成のスピードに差があったことが判明する。

 大島中学校男子生徒の特設防衛通信隊も、沖縄戦の鉄血勤皇隊の奄美版であることが判明する。第三二軍の方針に基づき、独立混成第六四旅団と鹿児島県現地当局との間で協議が行われて動員決定されたのである。隊員は食糧不足に悩まされながら、通信業務の他に、手榴弾の投擲訓練等の戦闘訓練も行っていた。

 住民女性の軍事動員は不明な点が多い。中学校は奄美高等女学校が「富山丸」の生存者の看護と奄美大島陸軍病院の手伝いした以外ははっきりしない。女子生徒以外の軍事動員も部隊ごとに動員していたと思われるが、断片的な資料しか残されていない。

 このように奄美諸島における住民の軍事動員は、基本的に沖縄県と同様の経過をたどっていたことが分かる。行政区分は異なっているが、ともに第三二軍の守備範囲であり、防衛隊や特設防衛通信隊は軍の方針に基づいて動員されていたのである。まさに奄美諸島も沖縄戦の一部なのである。

 

(註1)和泊町誌編集委員会編『和泊町誌 歴史編』(和泊町教育委員会 一九八五) 七五〇頁

(註2)末松則雄「沖永良部島における戦争体験記」(徳之島郷土研究会『終戦五十周年記念 戦争体験記第二集』(同会 一九九五)所収) 一五頁

(註3)知名町誌編集委員会編『知名町誌』(知名町役場 一九八二) 四〇八頁

(註4)前掲註3 五六六頁

(註5)島尾ミホ『海辺の生と死』(創樹社 一九六九) 一四六頁

(註6)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『第二二八設営隊戦時日誌 昭和二○年五月』一四〇四頁

(註7)西シガ子さんからの聞き取り

(註8)瀬戸内町誌歴史編編纂委員会編『瀬戸内町誌歴史編』(瀬戸内町 二○○七) 六五六頁

(註9)重村三雄『燻し銀の世界』(露満堂 二〇〇一) 一三頁

(註10)鹿児島県立古仁屋高等学校創立七十年記念事業実行委員会編『鹿児島県立古仁屋高等学校創立七十年記念誌』(同会 二〇〇一) 一二一頁

(註11)富山丸遺族会全国連合会編『輸送船富山丸の戦没記録と遺族のあゆみ』(同会 二〇一〇) 六六