奄美諸島における住民の軍事動員(8) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 徳之島班も古仁屋班と一緒に、二日間歩いて古仁屋に到着した。(『記録のない過去』一〇七頁)その後古仁屋から徳之島山港へ漁船で夜間に移動した。(移動は大発との証言もある。(『記録のない過去』一四二頁等)航行中は灯火管制を行い、声も立てず、息遣いもしなかった。山港に到着後、爆発音が聞こえ、焔が上がるのが目撃された。(『記録のない過去』九八頁)そこからはトラックに乗って、花徳・轟木を経由して司令部のある天下茶屋に到着した。(『記録のない過去』一〇七頁)

 暗号班では、暗号電報の組立・翻訳を行った(『記録のない過去』一五八頁)が、重要な電報は扱わせてもらえなかったという。(『記録のない過去』二〇四頁)専ら電報文の入ったカバンを持って、山道を登り下りして各部署へ配達することが任務だった。(『記録のない過去』七四頁)

 無線班では電鍵は打たせてもらえず、交信の際に発電機を手で回して電気を起こすのが仕事だった。(『記録のない過去』一〇七頁)他には暗号班に受信文を届けることも任務だった。(『記録のない過去』六四頁)

 有線班は、交替で電話機の前に座り、山頂から送られてくる防空情報を逐一復唱し、当直責任者に報告することだった。(『記録のない過去』一四三頁)このように各班の任務は古仁屋班・徳之島班共に、ほぼ同じだったことが分かる。

 班ごとの任務の他にも、様々な任務が隊員には課せられた。天下茶屋から炊事場まで食料の運搬(徳之島)(『記録のない過去』六三頁)、手榴弾の投擲訓練(古仁屋・徳之島)(『記録のない過去』八八・二一一頁)、竹槍訓練や短剣術の訓練(古仁屋)(『記録のない過去』九五頁)、防空壕作りで丸太の運搬(徳之島)(『記録のない過去』九九頁)、短剣術と爆薬を抱え戦車に突入する訓練(徳之島)(『記録のない過去』一四三頁)、タコツボ掘り(徳之島)(『記録のない過去』一五八頁)、パイナップルの空き缶に爆薬を詰めた手榴弾の投擲訓練(徳之島)(『記録のない過去』一六二頁)があげられる。

 陣地構築や食糧運搬等の作業的なものだけでなく、各種兵器を使用した戦闘訓練もあったことは注目すべきである。ただし小銃の射撃訓練を行ったとの証言はない。徳之島の暗号班には銃はおろか短剣も支給されなかった。(『記録のない過去』二〇三頁)古仁屋の有線班は「銃剣の他に手榴弾二個を携帯していた。用途は携帯用電話機の破壊と自爆用だった」(『記録のない過去』二一七頁)という。

このように特設防衛通信隊は通信が主任務だったが、いざという時は戦力としても期待されていた。ただし携帯していた兵器はあっても短剣と手榴弾程度と思われるので、主戦力ではなくあくまでも補助戦力であろう

 多くの隊員の証言に登場するのは、乏しい食糧事情である。昼食の雑炊は米粒がパラパラ入り、主な中身はソテツの黒い団子(『記録のない過去』六三頁)、玄米に平麦・ツワブキなどの入った所謂まぜものが主食で、副食は養豚場の餌の類(『記録のない過去』七五頁)、おかずは粉味噌や粉醤油の汁に、申し訳程度の具を浮かした汁で、たまに野菜やさつま芋のてんぷら(『記録のない過去』一二五頁)という状態であった。

 これで食べ盛りの少年の腹を満たせるわけはない。様々なものを口に運ぶことになる。ハブ・蛙・イナゴ(『記録のない過去』八〇頁)、山野のイショビやグミの実、マムシやハブ(『記録のない過去』八八頁)、クビ木の黄色に熟れた実(『記録のない過去』一九八頁)等、身の回りの手に入る物を口にした様子が伺える。もっともこれは特設防衛通信隊に限ったことではなく、守備隊全般に言えることである。

 腹を満たせない結果、壕の倉庫から乾パンや金平糖を盗む(『記録のない過去』五四・八〇・九六・一〇三・一一八・一四六~一四七・一六八頁)、兵隊と一緒にダイナマイトを使って魚を捕る(『記録のない過去』七九・一一七・一三〇頁)、食べ物を探しに村に下りる(『記録のない過去』八九頁)、住民の避難小屋を訪ねて芋や黒糖を買う(『記録のない過去』一〇九頁)、軍用犬の食事を食べる(『記録のない過去』一六九頁)等である。

 壕の倉庫から乾パンを盗むことは、古仁屋でのみ確認できる。兵隊も盗んでいるとの情報がきっかけらしい。(『記録のない過去』九六頁)成功率は六割で(『記録のない過去』一四七頁)、盗みが見つかることもあった。その時は将校から説教されたり(『記録のない過去』五四~五五頁)、副官から「手打ちに致す」と日本刀を引き抜かれたが、説教とビンタだけで釈放された。(『記録のない過去』九六頁)

 ダイナマイトを使って魚を捕るのも、古仁屋でのみ確認できる。下士官がどこからかダイナマイトを入手して、川や海に投げ込んで漁をした。時分達で焼き魚や煮付けにして食べたり(『記録のない過去』一三〇頁)、捕った魚を芋・黒糖・米・焼酎と物々交換したりした。(『記録のない過去』七九頁)徳之島班は旅団司令部に配属されたので、軍規も厳正だったのだろう。それに比べて古仁屋班はある意味自由だったようだ。

 また特設防衛通信隊に参加しなかった大島中学校の生徒は四月一一日から五月一日にわたり、少なくとも三五三名の在校生・卒業生が、防衛隊に召集された。(註1)具体的な任務内容は不明だが、残った生徒も軍事動員は免れなかったのである。

東喜望さんは大島中学校に一九四五年に合格したものの、空襲が始まったため、五月下旬に古仁屋経由で徳之島に帰郷した。六月半ばに徳之島の中学生全員と小学校高等科の生徒が集められ、天城山中の陸軍基地で数日間軍事訓練を受けた。地雷を抱えて戦車に体当たりする訓練だった。(註2)大島中学校の生徒以外の軍事動員の実態は不明な点が多いが、日本軍は国民学校生生徒までも戦闘に動員しようとしていたのである。

 

(註1)福岡永彦『太平洋戦争と喜界島』(私家版 一九五八) 三四二~三四三頁

(註2)五十周年記念誌編纂委員会編『安陵遥か 関東安陵会五十周年記念誌』(関東安陵会  一九九七) 一〇七頁