奄美諸島における住民の軍事動員(7) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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  特設防衛通信隊は三月二七日に五八名が出動した。二八日には二二名が出動して、この日のうちに重砲兵第六連隊に入隊した。(註91)さらに四月四日には憲兵隊長が来校し、新卒業生より一〇人の通信隊員の選出・派遣を要請した。四月五日はK軍曹が特設防衛通信隊予備員の召集依頼のため来校した。四月七日に通信隊派遣生徒一〇名が古仁屋に出発した。(註92)

 三月に出発した八〇名が第一陣ということになるのだろう。それから日を置かず新卒業生から一〇名が追加で召集され、四月七日に古仁屋に出発したのだろう。

 その後も四月八日に通信隊予備員の出動要請があり、七月一三日には重砲兵第六連隊長より本島内全生徒を招集するように電話があった。七月二三日には石川隊要員候補者一〇名の選考が行われた。(註93)六月下旬にも重砲兵第六連隊へ入隊命令が出されたが、入隊出動の日に取り消し通知がきたという。(『記録のない過去』二五九頁)七月以降の動員は、沖縄が陥落し奄美への侵攻が予想される中、さらなる戦力強化を図ったものだろう。

 特設防衛通信隊は、四月二日に徳之島の独立混成第六四旅団司令部に四二名が入隊したが(註94)、八月三一日に四八名が帰還しているので(註95)、途中で六名が入隊したことになる。

最初の徳之島到着については六日徳之島到着との記録(註96)や、五日に「特設防衛通信隊ヲ迎エテ祝辞及其ノ覚」(註97)との記述があって、はっきりしないが、五日までに入隊したことは間違いない。

 古仁屋には重砲兵第六連隊司令部に、暗号班一〇名・有線班一〇名・無線班二〇名の合計四〇名が入隊した。(『記録のない過去』四九頁)先述のように古仁屋への入隊は八〇名との記録があるが、差の二名がなぜかは不明である。

 入隊に際しては保護者の承諾印が必要ということで、ある隊員は印鑑を貰いに実家に帰り、父親に押印して貰った。(『記録のない過去』二二一頁)

その一方、配属将校から「家族には内緒で印鑑を持参するように。また諸君の今回の入隊の件は軍事機密事項だから、他言無用である」と言われて、印鑑を提出したという。(『記録のない過去』一二一・一二三頁)この時親兄弟にも内緒で印鑑をもっていった隊員もいた。(註98)中には目的を察知した父兄が絶対に印鑑を渡さず、ひどい目に合わされた生徒もいた。(註99)

 親の承諾は沖縄の鉄血勤皇隊でも同様だった。沖縄県立第一中学校では、隊員は一端家に帰されて、二・三日中に承諾印を提出した。中には親の承諾がなくて自ら親の承諾印を盗んで捺印した者もいた。沖縄県立工業学校でも同じ措置を採ったが、親の反対で承諾印を貰えず、承諾印もないまま提出した者もいた。そのような隊員は一括して那覇の印鑑屋で印鑑を作らせて、強制的に捺印した。(註100)

 沖縄でも奄美でも親の承諾印とは言っても、入隊は既成事実で、承諾は単に形式的なものであったことが分かる。奄美に至っては動員されることを隠し、内緒で印鑑を持参させている。印鑑を持参しなかった生徒がその後入隊したかは不明だが、隊員に選抜された時点で、基本的には逃れるすべはなかっただろう。

 古仁屋班は先述のように、三月二八日に徒歩で古仁屋に到着した。春寒の中、夜間に降雨の中を背中にリュックを背負っての移動だった。出発一時間後には、殆どの隊員は私語もなく、ただ惰性で歩くのみで、疲労困憊の状態だった。移動は二日間にわたり、約五〇キロを歩き抜いた。(『記録のない過去』一一四頁)

 入隊後の二年生は軍属、三年生は二等兵として勤務し、二年生には一九円五〇銭が支給された(『記録のない過去』五三頁)二等兵の五カ月分の給料は強制貯金されて一五〇円もあった。(『記録のない過去』八二頁)隊員が配属されたのは古仁屋町背後の高知山にある連隊本部だった。(『記録のない過去』四八頁)その後五月に造られた湯湾岳通信所、阿木名集落から離れた山中の無線基地にも隊員が派遣された。(『記録のない過去』四九~五〇頁)

 暗号班は三班編成の二十四時間勤務だった。無線班から送られてくる電報の解読または組み立てが任務だった。一日勤務すると、後の二日は非番だった。(『記録のない過去』七九頁)任務は軍事機密に触れる内容で、使命感と誇りを持てるものだった。組立・解読作業は軍人よりも生徒のほうが、正確に早く出来るという評価さえあった。(『記録のない過去』五三頁)

 無線班は軍無線(本土・奄美・沖縄の旅団、師団間の通信)と部隊間通信(徳之島の旅団司令部と重砲兵第六連隊間の通信)に分かれていた。(『記録のない過去』一二一頁)軍無線は主として、沖縄の第三二軍と一日に五から六回定期的に交信した。沖縄の組織的戦闘終了の時は、六月二四日一時ころに電文を受け取り、すぐに暗号班に伝えた。(『記録のない過去』一二九頁)先述の湯湾岳通信所や(『記録のない過去』一一五頁)、住用村の新村にも通信所を開設している。(『記録のない過去』一三〇頁)

 有線班の本来の任務は、野戦用の手回し発電機付きの電話機を担ぎ、リールに巻かれた電話線を敷設することだった。(『記録のない過去』一二一頁)実際には、各監視所から報告される敵機の動きの電話を紙に書いて、司令室に持っていくことだった。訓練の時には、一〇キロの電話線を巻いたものを持って敷設した。(『記録のない過去』九五頁)

 

(註1)鹿児島県立大島高等学校創立百周年記念事業実行委員会編『安陵 創立百周年記念誌』(同会 二〇〇二) 三四一頁

(註2)前掲註1 三四二頁

(註3)前掲註1 三四五頁

(註4)防衛研究所戦史研究センター所蔵『独立混成第六四旅団作戦関係資料』

(註5)前掲註1 三四六頁

(註6)前掲註1 三四二頁

(註7)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『独立混成第六四旅団高級部員中佐 中溝

猛氏日誌』

(註8)『関西安陵会創立三〇周年 安陵魂』(同会 一九九二) 一四五頁

(註9)名瀬市誌編纂委員会編『名瀬市誌 中』(名瀬市 一九七一) 四四〇頁

(註10)大田昌秀『沖縄鉄血勤皇隊』(高文研 二〇一七) 一〇七頁