国立公文書館所蔵の「開聞丸」関係資料について | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 東京の国立公文書館所蔵の資料に「独立混成第六四旅団司令部留守名簿」がある。奄美諸島に駐留した独立混成第六四旅団の司令部員の氏名・階級・本籍等が記された資料である。いわば隊員名簿である。

 この留守名簿の末尾に、一九四五年二月一八日に与論島近海で沈没した「開聞丸」に関する文書が添付されている。その文書には「開聞丸」の沈没状況のほか、死亡した与論島の勤労報国隊員二三名の氏名・住所が記されている。

この日「開聞丸」には、徳之島飛行場建設工事に徴用された与論島の住民三五名他若干名が乗船していた。茶花港を出港し沖永良部島へ向かう途中、午前一一時三〇分頃に一機のB24の攻撃を受けた。まずB24は二〇〇メートル上空から同船を銃撃し、船尾が破壊し散乱した。続いて五〇メートルの超低空で銃爆撃を行い、爆弾が機関部並びに操舵室前に命中し、船体は大破し船首のみが残った。さらにB24は人員殺傷を目的とするように、一五メートルの超低空で機銃掃射を行った後に、西方に飛び去った。船体は一時間半後に完全に沈没した。搭乗者の暁部隊の山村伍長は、本船備付けの小舟に生存者を乗せて、沖永良部島へ向けて航行した。小舟は航行中に救助船に救出されて、午後七時三〇分に知名港に到着した。

 当時「開聞丸」は第七船舶輸送司令部沖縄支部徳之島出張所に所属していたと思われる。それは同部隊の留守名簿に、「開聞丸」の乗組員と思われる軍属や同乗したと思われる兵士の名前が登場するからである。

「開聞丸」の船名は登場しないが、二月一八日に船長・機関長・甲板長・操機長・甲板員各一名が戦死しているのが判明する。同部隊では他にも兵士一名がこの日に戦死している。戦死時の詳しい状況は不明だが、軍属の役職が船一隻分の乗組員に当たること、徳之島近海でこの日他に沈没した船がないことから、彼らは「開聞丸」に乗船していたと考えられる。

 この他にも第三二軍野戦貨物廠徳之島出張所の留守名簿には、同じく二月一八日に戦死した兵士一名の名前がある。「与論島沖永良部島間海上ニ於戦死」とあることから、この兵士も「開聞丸」に乗船していたと考えられる。

 ちなみに「開聞丸」に乗船していて助かった暁部隊の山村伍長とは、第七船舶輸送司令部沖縄支部徳之島出張所所属の山村林軍曹だと思われる。山村軍曹は一九四五年三月一日に昇進しているので、「開聞丸」遭難時は伍長であるので矛盾はない。

 留守名簿に添付の「開聞丸」に関する文書は、生死不明者死没認定書・諸給与金証明書・身分証明書の三つからなる。このうち生死不明者死没認定書・諸給与金証明書は昭和二一年六月一〇日付で出されている。内容は死没者名簿と「開聞丸」の沈没状況である。これらの文書によって死没者の身分が勤労報国隊員から臨時軍属(傭人)に変更になったと思われる。これを受けて昭和二二年三月一日付で全員が「留球公366」で死亡公報済となったようだ。

 大東亜戦争に関する勤務で死没した陸海軍人・軍属・嘱託員および工員は、遺族に特別賜金を賜与することになっていた。(註1)身分証明書によると「開聞丸」の死没者は傭人で給料は日額金四〇円なので、特別賜金は三二五円から一四〇〇円が支給されることになっていた。(甲乙丙丁の四区分で賜与金額が異なるが、傭人がどれに該当するかは不明。)勤労報国隊員のままでは特別賜金は出ないので、傭人に身分変更する必要があったのである。

 また諸給与金証明書では、昭和一七年陸軍省告示第二条第二項に掲げる特別賜金は支給されていないと証明している。文書のその後に昭和二〇年二月二〇日付の身分証明書が添付されているが、これは特別賜金規定の第二条に列挙されている諸手当を受給している場合は、それらの手当の金額が特別賜金よりも少額の場合に特別賜金が支給されるため(註2)、身分証明書の添付が義務付けられているためである。

 身分証明書の日付は昭和二〇年二月二〇日付となっているが、これは日付をさかのぼったもので、実際に作成されたのは生死不明者死没認定書と諸給与金証明書と同時期と思われる。おそらく「開聞丸」の死没者に関して特別賜金申請の動きがあり(おそらく遺族側からの求め。)、これを受けて厚生省から独立混成第六四旅団の誰かに照会があり、これらの一連の文書を発行したものと考えられる。各文書は高田利貞少将名で出されているが、実際に資料を提供したのは、中溝猛中佐か伯野淑一大尉あたりと考えるのが妥当だろう。文書を発行・作成したのは独立混成第六四旅団員の可能性もあるが、厚生省の担当者の可能性もある。

 ただし生死不明者死没認定書の「開聞丸」沈没の状況は詳細なものなので、独立混成第六四旅団は沈没状況の原本となる資料を作成していたと考えられる。(今のところ原本の所在は不明だが。)死没者名簿も元になる名簿が存在していた可能性がある。(「開聞丸」の乗船者名簿か勤労報国隊員の動員名簿か。遺族側が集団で特別賜金を請求した場合は、遺族側が名簿を提出した可能性もあるかもしれない。)

 また与論島の勤労報国隊員と別に独立混成第六四旅団司令部の留守名簿には、和泊町に本籍のある傭人が一名記載されている。留守名簿には「二〇年二月一八日 海門丸海没死 沖永良部島と与論島との東方海上」と書かれている。「海門丸」はもちろん「開聞丸」の誤りである。ただこの人は最初から留守名簿に記載されていたわけではない。「43・3・15援発。3~44号身分変更」とあることから、一九六八年になって追加されたことが判明する。「援発」とあるので、当時の厚生省が傭人として認定したものと思われる。

 これらの添付の文書に基づいて、「開聞丸」で死亡した住民について、特別賜金の交付申請が行われたと思われる。その結果がどうなったかは不明だが、交付申請を行おうとした結果、貴重な資料が現代まで残ることになったのである。

 

(註1・註2) 特別賜金については、アジア歴史資料センター所蔵「特別賜金に関するもの/大東亜戦役に係る死没者特別賜金賜与規程」及び「大東亜戦役に因る死歿者特賜金に関する件」を参照。