奄美諸島における住民の軍事動員(3) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 しかし召集後まもなく戦闘に突入した沖縄県と違い隊員達は、編成から敗戦までずっと防衛隊員としての任務のみに従事していた訳ではなかった。

 例えば喜界島の場合、隊員は四月五日に入隊したが、翌六日には食料増産の目的のため休暇を与えられて帰宅している。彼らが再び召集されたのは奄美諸島に甲号戦備の発令された直後の五月二一日であった。(註1)また正式な召集前の一九四四年八月二六日から二八日まで、二泊三日の宿泊訓練が行われている。(註2)

 名瀬町では三月一五日に防衛隊が編成されたが、五月一一日に「夕方防衛隊員召集の十点鐘なる」とある。二月一六日の召集の際にも鐘の合図で高千穂神社に集合しており(註3)、鐘が防衛隊の集合の合図であったことが分かる。隊員が兵舎や陣地など一定の所に集結していれば、わざわざ鐘を鳴らす必要はない。このことから名瀬の防衛隊は編成後、五月一一日まで解散していたことが判明する。おそらく各自家に帰っていたのだろう。

 このように召集して一度は隊を編成するが、本当に必要になるまでは(米軍の上陸が間近になる、何らかの作業を課す等)自宅で待機する、いわば「平時の防衛隊」とも呼べる状況が存在していたのである。

 こうした例は我々が思うよりも多く存在しており、三方村小宿、知名瀬、根瀬部では隊員は交代で詰所に勤務し、それ以外は農作業や漁をしていた。(註4)人数は三〇名くらいで、毎日竹槍等で訓練を行っていた。(註5)先述の喜界島の防衛隊は四月五日に召集されたが六日には増産目的のため休暇を与えられた。(註6)

 これは本土からの補給を絶たれた奄美のような離島では、なによりも食糧確保が切実な問題だからである。陣地構築や飛行場修理等の作業がない限り、家に帰って食糧増産に励んでもらったほうが、軍にとって口減らしにもなったからである。

 沖縄戦では、防衛隊員の主な任務は陣地構築、飛行場の建設・修理、食糧や機材弾薬の運搬等、日本軍の後方支援業務であった。奄美諸島も基本的には同様だったと思われる。

 徳之島、喜界島では沖縄本島に米軍が上陸する直前から米軍機の空襲が激しくなり、日本軍は連日連夜飛行場の修理に追われた。徳之島の防衛隊(第五○一特設警備工兵隊のことか?)は本部を前野集落東側の谷間に置き、事務室を前野の登為良方に置いて、二大隊千名が修理に従事した。ついには空の燃料のドラム缶や民家の石垣を穴に投げ込んで補修を行った。(註7)また防衛隊は山岳部に施設を造る人夫としても動員された。(註8)また一九四五年五月には、「防衛召集の天城村宿舎」の存在が確認出来る。(註9)

 ただし徳之島の防衛隊は資料が少なく、実態はほとんど分からない。また各資料を読んでも、第五○一特設警備工兵隊との違いがよく分からない。他の島の例から考えると、特設警備工兵隊以外に、守備隊に付属する防衛隊あってもおかしくないが、その存在は不明確である。今後の課題である。

 喜界島でも郷軍(私註、防衛隊のこと。)は飛行場修理に従事した。(註10)この他に田村大隊長の命令を受け、糧秣補充輸送隊を編成し、刳舟で奄美大島古仁屋の糧秣廠から食糧を運んだ。防衛隊員中の海上経験者と住民(おそらく漁師か)を選抜して編成され、第一七中隊は二回、第一八中隊は三回にわたり、六月から七月にかけて行われた。(註11)

 沖永良部島では、防衛隊員や住民を総動員して陣地構築が行われた。(註12)与論島の陣地は「与論出身の防衛隊員と学校の生徒は、連日骨身を削るような猛作業に挺身した」(註13)ものだった。

 奄美大島では名瀬の防衛隊が米と塩を山の倉庫に運搬し(註14)、知名瀬の防衛隊も一人三〇キロの食糧を名瀬から運んでいる。(註15)瀬戸内町では、小名瀬・阿鉄・油井・久根津・手安の五集落から召集された防衛隊約六○名が、食糧営団の非常米を油井岳に移動させた。(註16)

 瀬戸内町では各地で防衛隊の活動が確認出来る。三浦・瀬久井・キヤンマ油井岳、安脚場等の全域にまたがって、防衛隊が兵隊と共に道路または防空壕造りに従事した。(註17)阿鉄集落では防衛隊が、震洋隊(私註、陸軍のレ艇のこと。)への機材や食糧運搬、散兵壕の構築に従事した。(註18)

 網野子集落では壕堀り・兵舎建て・物資運搬(註19)、薩川集落では「タコ壺堀り迫撃砲の陣地作り、対戦車壕堀り、食糧や弾薬の運搬山野の開墾」(註20)古仁屋では「武器弾薬、食糧の運搬、各要所の監視、伝令などで雑役」(註21)だった。このように防衛隊の任務は主に後方支援であったことが判明する。

 

(註1)福岡永彦『太平洋戦争と喜界島』(私家版 一九五八) 一一一頁

(註2)前掲註2 八二~八六頁

(註3)岩切敦良「名瀬空襲メモ 太平洋戦争」(『奄美郷土研究会報』第七号 一九六七)  九九頁

(註4)東健一郎『あれから三十五年 名瀬空襲犠牲者の記録』(昭和プリント㈱ 一九八○) 一○一、一○五、一○九頁

(註5)根瀬部大正会編『太平洋戦争体験記 われらの戦中・戦後史』(根瀬部大正会 一九八七) 四二頁

(註6)前掲註2 一一一頁

(註7)天城町役場編『天城町誌』(一九七八) 八六五頁

(註8)義憲和「太平洋戦争と小学生」(徳之島郷土研究会『終戦五十周年記念 戦争体験記第二集』(同会 一九九五)所収) 四七頁

(註9)山下文武「故・山口覚陸軍伍長陣中日記」(奄美瀬戸内しまがたれ同好会編『しまがたれ 第七号』(同会 一九九九)所収)一四頁

(註10)前掲註2 八○、九五頁

(註11)前掲註2 八○~八六頁

(註12)川上忠志「沖永良部島の戦争の歴史」(『奄美ニューズレター 第三二号』(鹿児島大学 二〇〇七)所収) 一八頁

(註13)大内森業『ゆんぬ=与論 島のくらしと民俗』(北風書房 一九八二) 一三七~一三九頁

(註14)前掲註3 九九頁

(註15)前掲註4 一〇九頁

(註16)『わが町の戦中戦後を語る(思い出の体験記録集)』(瀬戸内町中央公民館 一九八九) 二六頁

(註17)前掲註16 二四頁

(註18)前掲註16 二八頁

(註19)前掲註16 三〇頁

(註20)前掲註16 五七~五八頁

(註21)前掲註16 一〇九頁