奄美諸島における住民の軍事動員(4) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 だが戦局の緊迫化は防衛隊を後方任務のみに従事することを許さず、日本軍の補助戦力として位置づけられた。町村ごとに防衛隊が編成された喜界島の防衛隊は、事前に田村大隊長指導の下に肉薄攻撃や夜間歩哨の訓練を受けていた。(註1)

 沖永良部島では防衛隊は各中隊に分散して配属されたが、「手頃の竹を一・五mに切り、その先に玉城の黒瀬鍛冶屋がトロッコ用線路を切断して作った穂先をつけた竹槍一本」(註2)を武器として持った。兵器が不足していたので、手製の槍を持たせたのだろう。

 与論島の防衛隊は竹槍一本を与えられ、特に海岸の島の警備および治安維持に従事した。(註3)第二小隊第三分隊は夜昼海岸に監視人を置いていたが、沖縄脱出兵に遭遇した。守備隊長から隊では面倒を見られないので防衛隊で送り出してくれと言われ、食糧を与えて徳之島へ送り出した。また別の時は、民家を荒らしている沖縄脱出兵を捕らえて、守備隊へ送り届けた。(註4)与論島では守備隊が少ないこともあって、重要な役割を担っていたのである。

 奄美大島笠利町の防衛隊は、竹槍の訓練やダイナマイトを投げる訓練が行われた。(註5)名瀬の防衛隊では、座礁していた「極洋丸」から外した鉄棒で迫撃砲を作る他、ダイナマイトを詰めた瓶の投擲訓練が行われた。(註6)

 瀬戸内町の勝浦・網野子・節子・嘉徳集落の一七歳から四五歳までの男性約六〇人で編成された防衛隊は、武器が鉄砲一〇余丁と擲弾筒二のみだった。主な武器は竹筒に爆薬を詰めたものだった。(註7)

 古仁屋の東方山中にいた独立第一三中隊は「山軍人」と呼ばれ、隊は全て第二乙種のような補充召集兵だった。有田俊麿さんは一九四五年五月に召集された。最上位が陸軍曹長、班長は伍長で、一個小隊が四〇人くらいだった。渡された三八式小銃は古い不合格品で、銃身が曲がり撃つと暴発の危険のあるものだった。銃のないものは竹槍を持った。(註8)

 先述の名瀬の防衛隊だが、一九四五年四月一四日午後五時に大島中学校校庭に召集され、独立第七中隊と呼称された。(註9)碇山勝盛さんは五月にこの防衛隊に召集されて、永田山山中の小屋に駐屯した。隊(私註、分隊か班か?)は一〇名で構成され、分隊長は伍長で班長は上等兵だった。この二人以外を除いて、ほとんどが三〇才から四五・六才の軍隊未経験者だった。名瀬港の沖の監視や、火炎瓶の投下訓練を行ったが、竹槍訓練は一度だけだったという。(註10)

 だがその装備は貧弱そのものであった。服装は「背広、詰襟、国民服、革靴、ズック、地下足袋」(註11)で、「ミノ」「カサ」をヨロイ・カブトのように着用していた。(註12)およそ正規軍とはほど遠い服装である。そのため「ステアヴェ軍人」(註13)とも呼ばれていた。

 武器も先述のような状態で、およそ近代装備を誇る米軍と戦う武器ではなかった。もし米軍が上陸していれば隊員の多くは「竹槍と二発の手榴弾を持ち、たこ壺に入り応戦後は自決」(註14)していたかもしれない。

 この時期の防衛隊は、先述のように名瀬町の防衛隊は独立第七中隊、古仁屋の東方山中は独立第一三中隊、喜界町は独立第一七中隊、早町は独立第一八中隊と、それぞれ別々の番号がふられている。おそらくこれは偶然ではない。少なくとも喜界島と奄美大島の防衛隊は町村単位に編成され、日本軍が一番から固有の通し番号を付したのだろう。

 そして町村単位に編成された防衛隊は、おそらく小隊・分隊・班に分かれていた。宇検村では「宇検村防衛隊第四小隊名柄分隊」(註15)の存在が知られる。笠利町の防衛隊は「サグラワタに本部を設置し、各国民学校区に支部が組織された」。(註16)、龍郷村の防衛隊の詰め所は当初は部落の集会所だったが、後に警備隊の命令で校区毎に山に上がった。(註17)大和村の防衛隊も「各校区に組織された」ことが知られる。(註18)

 それらの中でも、名瀬(当時は三方村)小宿校区防衛隊の例が一番よく分かる。「小宿校区の防衛隊は小宿で二分隊、里で一分隊、朝仁で一分隊を組織し」「一分隊八名位で一日交替、一分隊に一、二名指揮班」(註19)があった。

おそらく校区を構成する集落毎に分隊が置かれ、いくつかの分隊をまとめた校区毎に小隊が置かれたのだろう。沖縄県の防衛隊にも同様のことが言えるかは不明だが、奄美諸島の防衛隊は町村・校区・集落を構成単位とした、地域のつながりを重視した編成となっていたのである。

 

(註1)福岡永彦『太平洋戦争と喜界島』(私家版 一九五八) 一○一頁

(註2)大島郡和泊町企画観光課編『和泊町戦争体験記』(一九八四) 八九頁

(註3)与論町誌編集委員会編『与論町誌』(与論町教育委員会 一九八八) 三九四~三九五頁

(註4)『与論・国頭郡調査報告書 地域史研究シリーズ№1』(沖縄国際大学南島文化研究所 一九八○) 一二一~一二三頁

(註5)東健一郎「笠利村の戦時について」(『奄美郷土研究会報』第二二号 一九八二) 四一頁

(註6)東健一郎『あれから三十五年 名瀬空襲犠牲者の記録』(昭和プリント㈱ 一九八○) 二二頁

(註7)祝通俊『故郷の小径 瀬戸内町節子集落の二十世紀』(私家版 二〇〇〇) 四六、五三、五五頁

(註8)有田俊麿「山軍人当時を回顧して」(瀬戸内大正会『体験文集 第一集』(同会 一九九六)所収) 三~四頁

(註9)鹿児島県立大島高等学校創立百周年記念事業実行委員会編『安陵 創立百周年記念誌』(同会 二〇〇二) 三四二頁

(註10)碇山勝盛「私の戦後五十年 防衛隊の思い出」(『ルリカケス 第一六号』(奄美瑠璃懸巣会 一九九六)所収) 一  八頁

(註11)和泊町誌編集委員会編『和泊町誌 歴史編』(和泊町教育委員会 一九八五) 八九頁

(註12)前掲註3 三九五頁

(註13)『わが町の戦中戦後を語る(思い出の体験記録集)』(瀬戸内町中央公民館 一九八九) 三○頁

(註14)前掲註13 五八頁

(註15)藤原彰編『沖縄戦と天皇制』(立風書房 一九八七) 三七頁

(註16)前掲註5 三八頁

(註17)東健一郎「竜郷村の戦時(太平洋戦争)について」(『奄美郷土研究会報』第二三号 一九八三)所収) 七九頁

(註18)東健一郎「大和・宇検・住用村の戦時について」(『奄美郷土研究会報』第二四号 一九八四) 三五頁

(註19)前掲註6 一〇一頁