沖縄県で沖縄県で防衛召集が最も多かったのは、一九四五年の二月から三月であった。第九師団の台湾抽出の穴埋めとして大規模な防衛召集が行われている。これは前年一○月一九日の陸軍防衛召集規則の改正によって、今まで在郷軍人に限られていた召集が「徴兵終結処分を経ざる者」も召集できるようになったためである。このため一七、八歳から四五歳までの男子が文字通り根こそぎ動員された。
奄美の場合、防衛隊の編成時期は必ずしも明確ではない。最も早い沖永良部島では一九四四年一○月九日に在郷軍人会郷土防衛隊が結成され、二日後の一一日には青年学校生徒が、吉岡大隊長から防衛召集令状を受けた。(註1)同防衛隊は一一日夜中に召集され、生徒は竹槍を持って集まったが、一二日朝七時に解散した。(註2)
ちょうどこの間の一○月一○日は、米機動部隊による南西諸島空襲(いわゆる一○・一○空襲)の行われた日である。一一日の防衛召集は空襲後の上陸作戦を警戒してのものだっただろう。
同島ではこれとは別に、一九四四年一○月三日に、知名村立青年学校の教師二名が「在郷軍人として防衛隊に出動軍事訓練に参加」(註3)した。少なくとも一〇月に、防衛隊が存在し軍事訓練を行っていたことが確認出来る。奄美諸島では各島に守備隊が展開した以降に、防衛隊が編成されたと考えるのが自然だろう。
沖永良部島と同様に早い事例が、喜界島坂嶺集落である。一九四四年一一月五日に防衛隊が「警務隊在郷軍人、学校生徒除外 十六才以上六十三迄の男女」で編成された。(註4)喜界島の在郷軍人は喜界町が独立第一七中隊、早町村が独立第一八中隊としてそれぞれ編成されているので(註5)、編成から除外されたのだろう。
警務隊はよく分からないが、名前からすると警防団のようなものだろうか。他に任務があるため除外されたのだろう。注目すべきは年齢で、沖縄の防衛召集の正規の対象年齢よりも幅が広い。坂嶺の例が奄美諸島全域に当てはまるかは不明だが、一部とはいえ、根こそぎ動員が行われていたことは注目すべきである。
名瀬でも一九四四年六月二二日に、大島中学の生徒六名が在郷軍人関係者入会式並びに防衛隊結成式に参加した。(註6)なぜ生徒六名だけが出席したのかは不明である。在郷軍人関係者入会式と同時開催のようなので、ここでの防衛隊は在郷軍人が主体の可能性が高いだろう。
本格的に防衛隊の召集が始まるのは、一九四五年に入ってからである。与論島では同年二月に在郷軍人が召集され、山市郎軍曹を中隊長として一個中隊を編成した。与論校区は人員が多かったため、さらに一個小隊が編成された。(註7)
奄美大島名瀬町では先述のように一九四四年六月二二日に防衛隊が編成された。(註8)その後、「公会堂で防衛隊を編成」(一九四五年二月一六日)、「防衛隊召集あり」(一九四五年三月三日)、「大中校庭に在郷軍人集合して、防衛隊結成式」(一九四五年三月一五日)とある。(註9)
こうした一連の流れから判断すると、一九四四年編成の防衛隊はそのまま続かず一旦解散して、米軍上陸を前にした三月に再び編成されたようだ。この一九四四年編成の防衛隊は、沖永良部島の在郷軍人会郷土防衛隊と同様のものだろう。
また喜界島は喜界町の独立第一七中隊が一九四五年四月四日正午に召集令状が出されて、翌五日午前九時応召した。(註10)早町村の独立第一八中隊は「五月廿一日(中略)早町郷軍は海軍安藤部隊に応召と通報有り」(註11)とあるので、おそらく同時期に召集されたのだろう。
徳之島では一九四五年二月三日に「篤中尉と局員の防衛隊への召集延期を打ち合わせたるも、いまだ未決定とのこと」との記述がある。(註12)おそらくこの頃に郵便局員も含め、防衛召集が行われたのだろう。
このように島毎に微妙に時期が異なるが、沖縄本島の根こそぎ動員と同時期に防衛召集が行われたことは間違いない。
(註1)知名町誌編集委員会編『知名町誌』(知名町役場 一九八二) 四○九頁
(註2)沖永良部郷土研究会『えらぶせりよさ №三二』(二〇〇五) 六頁
(註3)前掲註1 五六八頁
(註4)『戦時行政常会記録 坂嶺部落区長記入』(二〇一〇) 三八頁
(註5)福岡永彦『太平洋戦争と喜界島』(私家版 一九五八) 七八~七九頁
(註6)鹿児島県立大島高等学校創立百周年記念事業実行委員会編『安陵 創立百周年記念誌』(同会 二〇〇二) 三三二頁
(註7)与論町誌編集委員会編『与論町誌』(与論町教育委員会 一九八八) 三九四~三九五頁
(註8)前掲註6 三三二頁
(註9)岩切敦良「名瀬空襲メモ 太平洋戦争」(『奄美郷土研究会報』第七号 一九六七) 九九頁
(註10)前掲註5 一一一頁
(註11)前掲註5 五頁
(註12)勝元清「日記「激戦下の徳之島」」(『徳之島郷土研究会報』第六号 一九七三) 一四頁