奄美諸島における住民の軍事動員(1) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

ヤフーブログから移行しました。随時更新していいきますので、よろしくお願いします。

はじめに

アジア太平洋戦争最後の地上戦となった沖縄戦の最大の特徴は、兵士の犠牲をはるかに上回る数の住民が犠牲になったことである。老人子供はもちろん、様々な形で日本軍に協力した住民の多くがその命を落とした

 その中には多くの人々が思い浮かべる鉄血勤皇隊やひめゆり部隊の他に、弾薬運びや負傷兵搬送等の後方任務に従事し、時には直接戦闘に参加することもあった防衛隊員・義勇隊員等があった。

 沖縄本島と同じ陸軍第三二軍の守備地域である奄美諸島では、住民はどのように軍事動員されたのだろうか。

 

一、防衛隊

 沖縄における防衛隊は学徒隊の影に隠れて一般にはあまり知られていないが、召集された二万二千人のうち約六割の一万三千人が戦死したと言われている。学徒隊の戦死者はその約十分の一である。いわば住民の軍事動員の中心を成すものである。

 一九四二年(昭和一七)に制定された陸軍防衛召集規則は、戦時又は事変に際し防衛上必要のある場合に在郷軍人(待命、予備役の将校及准士官、予備役の下士官兵、帰休兵、補充兵)及び国民兵役の下士官兵(徴兵終結処分を経ない者を除く)を召集することを防衛召集と規定している。

 一九四四年(昭和一九)三月二二日、南西諸島守備を担当する陸軍第三二軍が編成されると、在郷軍人を防衛召集した一一個の特設警備中隊が指揮下に編入された。奄美には第二二○(笠利)、第二二一(名瀬)、第二二二(古仁屋)の各中隊があった。人員はそれぞれ一二六名であった。(註1)

 笠利の第二二○中隊は陣地構築の一方、軽機関銃や三八式歩兵銃の訓練を実施した。(註2)名瀬の第二二一中隊は警備担当区域の防衛隊の指導を行う一方(註3)、敵上陸に備え陣地の構築や橋の爆破準備もしていた。(註4)

 特設警備中隊の武装は十分ではなかったようだ。第二二一中隊は大島中学校の銃器庫から徴収した三八式歩兵銃を使用し(註5)、ビール空瓶の中にガソリンを注入し、ダイナマイトの導火線を挿入した肉弾攻撃用の武器を作った。(註6)第二二二中隊は全員分の小銃はあったが、重機関銃はなく機関銃(私註、軽機関銃か。)が少々あるだけだった。(註7)

 兵器は不十分だったが、特設警備中隊はその装備や活動内容から分かるように、後に編成される防衛隊と異なりむしろ正規部隊に近い。それはこれらの隊の任務が「正規軍が配備されてない地域の防衛の強化と空襲による都市の混乱の防止と警備」(註8)であったからである。奄美諸島でも各中隊が配備されたのは、古仁屋を除くと陸海軍の守備隊がほとんど配備されていない地域である。

 同様に防衛召集によって編成された部隊に特設警備工兵隊がある。同隊は一隊あたり八○○人から九○○人で、沖縄本島をはじめ伊江島、宮古島、石垣島等に配備された。任務は主に飛行場建設作業であった。

 奄美では徳之島に第五○一特設警備工兵隊(隊長 龍造寺芳信少佐 一○八一名)(註9)が配備された。資料によっては一九四五年(昭和二〇年)一月一○日に徳之島四町村よりの応召者で編成されたとされるが(註10)、実際には前年九月一六日に編成されたようだ。(註11)同隊は米軍空襲で破壊された徳之島飛行場の修理に連日連夜活躍した。

 一九四五年(昭和二〇)一月二二日の空襲で破壊された飛行場修理に同隊は出動し、修理には午後六時から翌日の午前一時までの七時間を要した。(註12)同年三月一日の空襲で被害を受けた際も、第七五飛行場中隊と共に弾痕補修にあたった。(註13)

 同隊に関する資料・証言は少ない。数少ない証言では、同隊は天城・東天城・亀津・伊仙の四個中隊からなり、それぞれ三から四小隊からなっていた。一小隊は三〇から四〇人で編成されていた。隊員には制服の支給はなく、階級章や火器もなく、外被の支給があっただけだった。(註14)

 この姿は「みのかさ部隊」と呼ばれた、沖縄県石垣島の第五○六特設警備工兵隊に似ている。同隊の防衛召集者には軍服は支給されず、衣類、帽子、靴や日用品はすべて自前であった。もちろん銃は支給されなかった。(註15)特設警備工兵隊は戦闘部隊ではなく、文字通りの苦力部隊だったのである。

 

(註1)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『独立混成第六四旅団の概況』

(註2)東健一郎「笠利村の戦時について」(『奄美郷土研究会報』第二二号 一九八二) 三八頁

(註3)東健一郎「大和・宇検・住用村の戦時について」(『奄美郷土研究会報』第二四号 一九八四) 三五頁

(註4)東健一郎『あれから三十五年 名瀬空襲犠牲者の記録』(昭和プリント㈱ 一九八○) 二一頁

(註5)右田昭進『嵐の中で蛇行したヘビ年の青春』(私家版 二〇〇三) 六一頁

(註6)前掲註5 六一頁

(註7)『南海日日新聞』一九七五年八月一二日の記事

(註8)藤原彰編『沖縄戦と天皇制』(立風書房 一九八七) 一四二頁

(註9)前掲註1

(註10)天城町役場編『天城町誌』(一九七八) 八六五頁

(註11)防衛庁防衛研修所戦史部『沖縄方面陸軍作戦(朝雲新聞社 一九六八)別添の「第三十二軍戦闘序列および指揮下部隊一覧表」

(註12)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『第七五飛行場中隊戦闘業務詳報 S二〇・一・二二』 八五七頁

(註13)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『三・一南西空襲戦闘詳報 第七五飛行場中隊』 八七九頁

(註14)『南海日日新聞』一九八七年八月一七日の記事

(註15)石垣正二『みのかさ部隊戦記』(ひるぎ社 一九七七)