奄美諸島駐留日本陸軍(含む沖縄脱出兵)の復員について(3) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 五回目に復員が確認できるのは、一一月二九日である。「金十丸」に乗船して奄美大島から鹿児島県加治木に復員している。誠一六六二六(一四名)、奄美奄島陸軍病院(一名)、基第四八三一(一五七名)、独混二一連隊(一一三名)、古仁屋憲兵分隊(四名)、第二一航通(五名)、独混二二連隊(二一四名)、第一八四八二部(二名)、第三二野貨廠古仁屋出張所(四名)、風一八九一八部(二名)、球一八八二二(五名)、独混六四旅団司令部(一〇名)、陸上勤務七一中(五〇名)、暁一七六一九(五名)、球二七四〇(一三名)、球七一五六(一四名)である。(『週報綴』四五八~四五九頁)

 誠一六六二六とは第二六対空無線隊のことである。奄美奄島陸軍病院は奄美大島陸軍病院の誤りである。第二一航通は第二一航空通信隊のことである。第一八四八二部は第七五飛行場中隊である。第三二野貨廠古仁屋出張所は第三二軍野戦貨物廠古仁屋出張所のことである。

 また風一八九一八部は陸軍中央航空路部沖縄管区第五保安中隊、球一八八二二は第三二軍航空情報隊、暁一七六一九は船舶通信独立第二大隊第二中隊第三小隊、球七一五六は独混二一連隊を意味する。

 陸上勤務第七一中隊(基四八三一)は合わせて二百七名、隊員数の四割が復員している。一一月七日に続く復員である。二行に分けて書いてあるのは、同隊が奄美大島と徳之島に展開していたことに関係するかもしれない。独混二一連隊は隊員数の約五パーセント、独混二二連隊は一〇パーセントが復員した。独混二一連隊も二行に分けて書かれているが、その理由は不明である。

 一一月二六日から一二月二日の「帰還遺骨調表」に、陸上勤務第七一中隊一八柱、独混二一連隊三柱、独混二二連隊一柱、古仁屋憲兵分隊一柱、第二六対空無線隊西村隊一柱の遺骨の護送が記録されている。(『週報綴』四六〇頁)書かれている部隊から考えて、一一月二九日のことと思われる。

 一二月三日に西部復員監部は一二月一日の復員日報で、在奄美諸島の兵力を、軍人二二九四名・軍属五五名(註1)と報告している。復員が確実に進んでいることが分かる。

 六回目に復員が確認できるのは、一二月二日である。「洞節丸」に乗船して奄美大島から福岡に復員している。奄美大島混成部隊(七九〇名)である。(『週報綴』四二三~四二六頁)残念ながら各部隊の内訳は不明である。

 七回目に復員が確認できるのは、一二月三日である。福岡に復員している。奄美大島混成部隊の入院患者二名である。(『週報綴』五〇五~五〇六頁)この日は奄美からの部隊としてのまとまった復員はない。

 八回目に復員が確認できるのは、一二月九日である。徳之島から福岡に復員している。独混六四旅団(八四七名)である。(『週報綴』五一五~五一六頁)先述の資料を参照すると、旅団総員の一四パーセントが今回復員した計算になる。一回目からの復員数を合計すると、旅団全体で二八八九名が復員したことになる。

 重砲兵六連隊は一二月九日に博多湾に上陸し復員完結している。(註2)九日の独混六四旅団には同連隊が含まれていたと思われる。

 

(註1)防衛研究所戦史研究センター所蔵『復員状況調査報告 西部軍管区司令官』 八二頁

(註2)防衛研究所戦史研究センター所蔵『南方・支那・台湾・朝鮮(南鮮)方面陸軍部隊(航空・船舶部隊を除く)略歴 第二回追録』 一八七一頁