米軍資料に見る徳之島空襲(4) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 この日の第3波の攻撃隊は今のところ、特定できていない。第4波と第5波は、順番は不明だが、空母「レキシントン」を発進した、第9戦闘飛行隊のF6F7機、空母「サンジャシント」を発進した、第45戦闘飛行隊のF6F9機(ロケット弾6発を装備)と考えられる。
 第9戦闘飛行隊は午後5時に、飛行場周辺の建物、掩体壕内の九七式重爆と単発機に機銃掃射を加えた。その結果、建物には火災を起こさせ、九七式重爆を開始、単発機には損害を与えた。一方の第45戦闘飛行隊は、午後3時13分の発艦から午後6時30分の帰還までの間に、飛行場に対して2回機銃掃射とロケット攻撃を行った。
 日本軍の反撃は第4波に対して戦果はなかったが、第5波に対しては、機関砲と軽機関銃で撃墜2機と撃破4機を報じているが(註21)、米軍機の損害は報告されていない。
 この日の米軍機の空襲は飛行場だけでなく、亀徳集落が大規模な空襲を受け、亀津集落も攻撃を受けた。当時亀津国民学校訓導の名城秀時さんが登校しようとすると、既に米軍機が来襲していた。名城さんが機銃掃射を逃れて壕に飛び込んだ時は、午前8時前だった。(註22)
亀津集落で、亀津郵便局長の勝元清さんが米軍機の編隊を目撃したのは、午前7時40分頃である。(勝元清「日記「激戦下の徳之島」」(『徳之島郷土研究会報 第6号』(徳之島郷土研究会 1973)所収) 16頁。以下「激戦下の徳之島」と略し、頁を記すこととする。)これらのことから、八時前後には、亀津・亀徳集落への空襲は始まっていたと考えられる。
 米軍機の主な攻撃目標は集落ではなく、亀徳港に停泊していた、南方への兵器・弾薬を輸送途中の第501船団の機帆船11隻だった。(註23)亀徳港内の機帆船の火災が延焼して、集落数カ所に火災が発生したのである。(「激戦下の徳之島」16頁)午前中の攻撃で既に5隻が炎上していた。(註24)
 午前中に機帆船を攻撃したのは、空母「レキシントン」を発進した、第9戦闘飛行隊のF6F12機(武器は機銃弾のみ。)と、空母「サンジャシント」を発進した、第45戦闘飛行隊のF6F12機(11機はロケット弾6発を装備)だった。
「レキシントン」隊は喜界島と徳之島の撮影任務のため出撃した。先述の徳之島飛行場攻撃の前に、亀徳の小型帆船7隻(90トン)を8機がロケット弾2発と機銃弾で攻撃し、3隻に甚大な損害を与え、1隻に中程度の損害を与えた。この時攻撃隊の2機は、亀徳の住宅を機銃弾で攻撃し、75パーセントが命中し、僅かな損害を与えた。このように集落へも攻撃が行われたとの回想は、事実だったことが分かる。
 「サンジャシント」隊は、沖永良部島と徳之島の戦闘機掃討のため出撃し、まず沖永良部島で船舶を攻撃した。その後徳之島に向かい、亀徳港で10隻の小型帆船をロケット弾と機銃で攻撃したが、最終的に1隻だけしか炎上しなかった。
 この時に攻撃隊は、謎の兵器の攻撃を受けている。それは「数か所の明白な迫撃砲の爆発が見られ、それはおおよそ高度700~800フィートで爆発した。そして暗い色の迫撃砲弾に似た浮かんだ物体からの、小さな(3フィート)のパラシュートを爆発は放した。その浮かんだ物体はパラシュートの下に約4フィートに吊るされていた」という。
 このパラシュート状の兵器は、阻塞弾の可能性が高い。日本陸軍では歩兵用の7センチ阻塞弾発射器を使用している。これは迫撃砲に似た兵器で、そこから砲弾を打ち上げる。砲弾は空中で7個に分離して、それぞれ紙製パラシュートを開く。パラシュートにひもで対空爆雷が吊り下げられていて、敵機がひもにひっかかると爆雷が炸裂するという兵器である。(註25)おそらく港にいた第501船団から撃たれたものだろう。
 亀徳集落へは午後3時過ぎに、再び米軍機が来襲した。港内めがけて爆弾を多数投下し、水煙がぽんぽん上がった。米軍機は演習のように悠々と攻撃し、悠々と飛び去っていった。この攻撃で港内の船団は全てが燃えだした。(註26)
 午後に機帆船を攻撃したのは、空母「レキシントン」を発進した、第9戦闘飛行隊のF6F7機(武器は機銃弾のみ。)と、空母「サンジャシント」を発進した、第45戦闘飛行隊のF6F9機(ロケット弾6発を装備)だった。飛行場攻撃の第4波・第5波である。
 「レキシントン」隊も、喜界島と徳之島の撮影任務で出撃し、喜界島の撮影の後、徳之島に到着した。先述の飛行場攻撃の前に、亀徳の小型帆船7隻のうち4隻を攻撃した。命中が目撃されて、さらに損害を与えた。
 「サンジャシント」隊も、沖永良部島と徳之島の戦闘機掃討のため出撃し、6機が沖永良部島に、8機が徳之島に向かった。飛行場を銃撃後、亀徳港で数隻の小型船舶をロケット弾と機銃で攻撃し、3隻に損害を与えて火災を発生させた。
 結局、この日の空襲で亀津集落は3カ所で火災が起きたが被害は軽少だった。一方亀徳集落では250戸が全焼し、罹災者520名を出した。亀徳港の船団は12隻炎上し(私註、11隻の誤りか。)、軍人3名と軍属4名が戦死、軍人10名と軍属9名が負傷した。(「激戦下の徳之島」16頁)
 亀徳集落への攻撃は港の船団が狙ったもので、集落の攻撃が主な目的ではなかった。そのため集落への攻撃は一部の機の機銃掃射のみだった。だが当日は風が強かったようで、南東または東の風にあおられて(註27)、船団の火災が住宅に延焼し、大きな被害をもたらす結果になったのである。

(註1)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『奄美守備隊空襲詳報 S20・3・1』 1160頁
(註2)仁愛之助「亀徳空襲の一日」」(『徳之島郷土研究会報 第13号』(徳之島郷土研究会 1987)所収) 139頁
(註3)掲註1 1155頁
(註4)前掲註2 140頁
(註5)木俣滋郎『幻の秘密兵器』(廣済堂出版 1977) 97頁
(註6)前掲註2 140頁
(註7)前掲註2 141~142頁