米軍資料に見る徳之島空襲(5) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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この後、米軍機による徳之島への空襲はしばらくなかった。次に空襲が行われたのは3月23日である。沖縄本島上陸作戦の準備のために南西諸島一帯に行われた、上陸前空襲の一環だった。
 来襲したのは、午後12時30分に空母「ハンコック」を発進した、第6戦闘飛行隊のF6F14機である。攻撃隊は奄美大島、加計呂間島と徳之島を攻撃した。徳之島では飛行場の掩体壕をロケット弾34発と機銃で攻撃したが、命中と損害は確認できなかった。他に飛行場の倉庫を4機が銃撃したが、同様に命中と損害は確認できなかった。1機が対空砲火を被弾して損傷しているが、どこで被弾したかは不明である。
 「徳之島空襲日記」を書いた小林正秀さんは、当時飛行場近くの岡前集落に住んでいた。この日については、「午后一時、四時の二回空襲、馬鞍岳上空よりはげしい爆音で飛行場を爆撃、滑走路など爆破された」(小林正秀「徳之島空襲日記」(『徳之島郷土研究会報』第6号 徳之島郷土研究会 1984 所収) 62頁。以下「徳之島空襲日記」と略し、頁を記すこととする。)と記している。
先述の勝元清さんの日記では、「二時二十分徳之島上空にグラマン二十機来襲。浅間飛行場、伊仙村の面縄方面に爆弾投下」(「激戦下の徳之島」18頁)と記している。二つの日記はことなる来襲時間を記すが、午後に来襲したことは確かである。
 24日、奄美地区には12機が来襲した。(註1)午前7時40分頃にグラマン12機が来襲し、1機を撃墜したが、機帆船2隻が炎上した。(註2)
 来襲したのは、午前6時4分に空母「ハンコック」を発進した、第6戦闘飛行隊のF6F12機だった。部隊は日本軍の報告のとおり、午前7時40分に目標上空に到着した。徳之島・奄美大島・沖永良部島が攻撃された。
徳之島では飛行場の掩体壕内の飛行機が、12機にロケット弾10発と機銃で攻撃され、5機に損害を与えて2機を破壊した。また飛行場の東側建物を1機がロケット弾2発で攻撃し、2発が命中したが、損害は確認出来なかった。日本軍は1機の撃墜を報告しているが、米軍に損害はなかった。
 25日は「午前八時半より飛行場空襲」を受けた(「徳之島空襲日記」62頁)が、米軍側の資料はまだ発見出来ていない。
 26日は「午前七時三十分一回、午后二時頃より三時近くまで飛行場へ空襲続き、四十一発の爆発音を聞いた」(「徳之島空襲日記」62頁)とあり、飛行場は激しい空襲を受けた。
 午前中の来襲機の所属は不明だが、午後の来襲機は所属が判明している。まず午後1時に、空母「エセックス」を発進した、第83戦闘爆撃飛行隊のF6F4機が来襲した。この部隊の任務は沖縄の戦闘空中哨戒だった。滑走路の飛行機を銃撃し、二式単戦1機を破壊し、6機に損害を与えた。
この時点ではまだ徳之島には、日本軍の飛行部隊は進出していない。米軍機が攻撃した日本機は、使用不能になって放棄された機体であろう。
この攻撃隊は、別に島の東側の倉庫を銃撃したが、損害は確認出来なかった。これに該当するのは、「十四時三十六分に四機が西北より出現し、亀徳に爆撃す」(「激戦下の徳之島」19頁)であろう。亀徳集落は徳之島の南東部に位置しており、機数も一致している。
 続いて来襲したのが、空母「イントレピッド」を発進した、第10戦闘飛行隊のF6F12機・第10戦闘爆撃飛行隊のF6F4機(500ポンド爆弾1発とロケット弾8発を装備)と、空母「ヨークタウン」を発進した、第9戦闘爆撃飛行隊のF6F12機(500ポンド爆弾又はロケット弾を装備)だった。
 この攻撃隊は飛行場を攻撃した。前者は兵舎地域と掩体壕内の九六式陸攻を攻撃し、兵舎その他の建物にいくらかの損害を与えたが、九六式陸攻への攻撃は失敗した。後者は掩体壕と施設を攻撃し、爆弾1発と機銃弾が命中した。米軍側に損害はなかった。この日の攻撃は、飛行場にそれほど大きな損害は与えなかったようだ。

(註1)防衛庁防衛研修所戦史部『沖縄方面陸軍作戦(朝雲新聞社 1968) 207頁
(註2)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『奄美地区独立混成第六十四旅団 高級部員中佐中溝猛氏日誌』