米軍資料に見る徳之島空襲(3) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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1月22日に続いて米艦載機の空襲を受けたのが、3月1日である。この日は第58・2任務群の空母「ハンコック」「レキシントン」「サンジャシント」から飛び立った艦載機が、午前中から奄美諸島に襲いかかった。
 午前7時20分に「レキシントン」を発進した、第9戦闘飛行隊のF6F15機(5機は1000ポンド爆弾を、9機は500ポンド爆弾を装備)、第9爆撃飛行隊のSB2C14機(100ポンド爆弾10発を装備)、第9雷撃飛行隊のTBM15機(500ポンド爆弾2発と250ポンド爆弾2発を装備)は、「サンジャシント」から発進した第45戦闘爆撃飛行隊のF6F10機、第45雷撃飛行隊のTBM9機(100ポンド爆弾約10発を装備)と共に、徳之島飛行場攻撃に向かった。
 攻撃隊は午前9時数分前には徳之島に到着した。第9爆撃飛行隊は飛行場の日本機を爆撃し、「銀河」を含む双発機3機と零戦を含む単発機4機を、破壊もしくは損害を与えた。その他に対空陣地1カ所と建物2棟を破壊した。
 第9雷撃飛行隊は、飛行場東側の建物・飛行場南東角の建物・飛行場の西側の建物と飛行機を爆撃し、多数の命中を認めたが、被害は確認出来なかった。搭乗員は「爆弾の爆発からの煙は命中効果の判定を不可能にした」と報告している。
 第9戦闘飛行隊は、滑走路・掩体壕・兵舎や周辺の施設に爆弾を投下した。滑走路には少なくとも3発が命中し、機銃掃射も合わせて双発機1機と隼1機を破壊し、単発機2機に損害を与えた。
 日本軍の反撃も激しく、第9爆撃飛行隊はSB2C2機が機銃弾を被弾した。1機は僅かな損害だったが、もう1機は機銃弾が左翼端に命中し油圧系統と着陸装置が破壊され、着艦後に機体は投棄された。第9戦闘飛行隊も1機が、対空砲で胴体タンクが吹き飛ばされ、僅かな損害を受けた。
 一方、第45雷撃飛行隊のTBM9機は、飛行機修理施設と兵舎を爆撃して、建物7棟を破壊または損害を与えた。さらに飛行場の南西角の掩体壕内の飛行機(単発戦闘機)1機を、爆撃により破壊した。他には飛行場の南東角の倉庫地域を爆撃したが、損害は与えられなかった。第45戦闘爆撃飛行隊は爆撃・雷撃機と共に降下し、2式単戦1機・隼2機・機種不明の単発機1機を機銃掃射し、それらを穴だらけにした。
 また喜界島と徳之島の撮影任務を帯びた、空母「レキシントン」を発進した、第9戦闘飛行隊のF6F12機(3機は500ポンド爆弾1発、3機はロケット弾4発を装備)も、午前10時15分頃に飛行場を攻撃している。
 低い雲のため徳之島の撮影が出来なかった攻撃隊は、掩体壕内の日本機を銃撃した。戦果は単発機1機と彗星1機を破壊、双発機1機と隼1機に損害を与えたと報告された。米軍の損害は1機が防弾ガラスを20ミリ弾に撃たれ、粉砕されたが無事だった。
 この日徳之島へは、午前と午後に5回に亘り米艦載機が来襲した。第1波は午前7時50分から午前8時20分までの45機、第2波は午前9時10分から午前9時20分までの12機、第3波は午後3時5分から午後3時10分までの20機、第4波は午後3時15分から午後3時18分までの6機である。第5波は午後3時40分から午後4時までの7機である。(註1)
 このうち第1波と第2波は、飛行場の北方天城山上空から、飛行場に銃爆撃を加えた。第75飛行場中隊は警備小隊の高射機関砲2門で反撃し、グラマン2機に白煙を吐かせて逃走させた。そのうち1機は、ほぼ確実に海中に墜落したと判断された。米軍機は午前10時30分に南方へ去っていった。(註2)
この第1波と第2波が、先述の「レキシントン」隊と「サンジャシント」隊と考えられる。飛行場の被害については後述するが、攻撃隊のうち2機が被弾し、うち1機が機体使用不能の損害を受けていることも、日本側の記録と見事に一致している。
ところで日本軍の報告する第1波の45機と第2波の12機の機数は、「レキシントン」隊の機数56機と「サンジャシント」隊の機数17機に近い数字となる。米軍の報告書からは両隊の攻撃の前後は分からないが、もしかすると第1波が「レキシントン」隊、第2波が「サンジャシント」隊なのかもしれない。
 米軍機は複数機の日本機の破壊を報告しているが、3月1日時点で、徳之島飛行場に何機の日本機があったかは不明である。だが徳之島には陸海軍共に航空部隊が配備されていないため、米軍機が攻撃した機体の多くは、事故や故障で放置されるか、これまでの空襲で破壊された機体だと考えられる。また本物の機体の他に日本軍は偽飛行機を製作し、滑走路内に並べたり掩体壕内にも配置していた。(註3)これらも米軍機の攻撃の標的になったようだ。
 だがこの日の米軍機の攻撃の中心は、飛行場の日本機ではなく、滑走路の東側(南東)と西側の地域であった。東側(南東)には小さな建物があり、米軍は兵舎もしくは倉庫と判断した。ここへは第9雷撃飛行隊が100ポンド爆弾58発で絨毯爆撃を行った。ここは滑走路と東側の拡張誘導路(補助滑走路)との間の一帯である。ここには飛行場本部が置かれ、多数の掩体壕が設けられていた。(註4)
西側は「徳之島飛行場の西側に隣り合っている、平均20フィート×25フィートの10棟の建物からなる飛行機修理と駐機地域と兵舎地域と管理建物」と報告されている。ここへは第9雷撃飛行隊の100ポンド爆弾56発と、第45雷撃飛行隊の100ポンド爆弾90発が投下された。
この地域は日本軍に「旧兵舎」と呼ばれていた。この頃第75飛行場中隊を始めとする飛行場関係部隊は、東側と南側の山に洞窟を掘って分散していた。もちろん燃料や弾薬も地下に隠されていた。(註5)おそらく旧兵舎とは、まだ米軍の空襲のない頃、洞窟に分散する前に各隊が駐留していた建物群のことで、建物はそのまま放置されていたのだろう。
 この爆撃は凄まじく、爆発による煙と土ぼこりが目標を覆ってしまい、命中や戦果の確認が出来なかったほどである。最終的に米軍は、第45戦闘飛行隊の戦闘機の写真で戦果を確認している。第9戦闘飛行隊の戦闘機1機も、カメラを積んでいたが、故障で撮影出来なかった。また第45雷撃飛行隊の雷撃機もカメラを積んでいたが、撮影のための低空飛行を恐れてしなかったため、こちらも確認出来なかった。
米軍の報告書には、おそらく戦闘機が撮影した写真が添付されている。写真では今ひとつよく分からないが、註2の884頁の「戦闘経過概要図」を見ると、滑走路と拡張誘導路との間、さらに旧兵舎地区が集中的に爆撃されているのが分かる。その反対に滑走路自体への被弾は意外と少なく、「滑走路内一発、補助滑走路四」発(註6)だけある。
米軍の報告でも、第9爆撃飛行隊が500ポンド爆弾で3発の穴を滑走路に開けたと報告し、第9戦闘飛行隊も3発の命中を報告しているだけである。雷撃機の100ポンド爆弾の大量搭載から分かるように、米軍の攻撃目的は滑走路自体の破壊ではなく、日本機または飛行場に近接する付属施設の破壊であったと考えられる。

(註1)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『奄美守備隊空襲詳報 S20・3・1』 1160頁
(註2)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『3・1南西空襲戦闘詳報 第75飛行場中隊』 875、883、884頁
(註3)前掲註2 881頁
(註4)前掲註2 882頁
(註5)前掲註2 882頁
(註6)前掲註2 877頁