2.秘密の場所
「バイトですか?」
突然背後から声をかけられ、海はハッとしてうしろを振り向くと、白いワイシャツに紺のエプロンをつけた男性が買い物袋を両手に抱えて立っていた。
「あっ、違います。」
海がドキドキして答えると、
「すみません、お客さんでしたか。ちょっと買い出しに行っていて。今開けますね。」
「えっと、違うんです。見てただけなんで・・・。」
「そうでしたか。よかったらどうぞお入りください。」
「でも、お財布持ってきてないんで・・・。」
「それは残念です。では、アルバイトの話を聞きに来られたということで、コーヒー1杯サービスしますよ。」
たくさん歩いて喉も乾いたし、素敵な外観の喫茶店の中の様子も気になった。そして何よりもほんの少し話しただけなのに、目の前にいる男性に引き込まれるような魅力を感じた。一目惚れというには年が離れすぎているけれど、初対面の中年男性に対してとても温かいものを感じた。このまま引き返してしまったら、“もっと話をしたかったな・・・”と後悔するに違いない。
海はペコリと頭を下げ、男性が開けてくれたドアをくぐった。店内はコーヒーの香りが漂っていて、海1人では絶対に入らないような大人の空間が広がっていた。4人掛けのテーブルが5つ、カウンター席が5つ。どうやら夜はバーになるらしく、棚には何種類ものお酒のボトルが並んでいた。
海がボーッと突っ立っていると、「どうぞ。」と言ってカウンター席のイスを引いてくれた。
「バイトの子が急に辞めてしまって、何かとやることが多くてね。あなたは高校生?」
「中3です。あっ、違った。今日卒業したんだった。」
「じゃあ春から高校生か。しっかりしてるから、高校2年生か3年生ぐらいかと思ったよ。」
海はそう言われて嬉しかった。普段自分のまわりにいる人たちから、そんな風に言われたことは一度もなかった。この時期は少しでも背伸びをして、大人っぽく見られたい年頃なのだろう。
「コーヒーは飲める?」
「はい。」
本当はコーヒーより紅茶の方が好きだったし、紅茶よりも断然オレンジジュースやリンゴジュースの方が好きだった。せっかく大人びてると思われたのに、コーヒーは苦いから飲めないとは言い出せずに見栄を張ってしまった。しばらくすると、オシャレなカップに注がれたホットコーヒーとケーキが目の前に置かれた。
「わぁー、おいしそう!」
思わず声を上げてしまった海を優しく見つめ、
「自家製のレアチーズケーキ、どうぞお召し上がりください。」
「いいんですか?お金ないのに・・・。」
「気にしないで。卒業のお祝いということで。」
「ありがとうございます。」
海が嬉しそうにお礼を言うと、店長も満足そうに微笑んだ。コーヒーにミルクと砂糖をたっぷりと入れるのを見て、
「本当はコーヒー好きじゃないんでしょ?」
と笑われて、海は恥ずかしそうに肩をすくめた。
「こんなお店でバイトできたらいいなぁ。」
海がポツンとつぶやくと、
「私としてもぜひお願いしたいな。でも高校の校則にもよるし、家の人の承諾も必要だからね。」
「うち、許してくれないんだろうな・・・」
「おうちの人、厳しいの?」
「そうなんですよ。厳しいっていうか口うるさくて。」
「じゃあ説得できたら、また改めて面接においで。」
「はい。」
海は笑顔で返事をした。
「ところで、さっきから携帯光ってるけど大丈夫?」
店長は海の隣のイスに置かれたバックを指さした。
「わぁっ!」
卒業式に隠し持って行ったときから、ずっとマナーモードにしていたことをすっかり忘れていた。慌てて携帯を取り出して確認すると、空からのラインだった。学校帰りに言い争いになったことを思い出し、“何だ空か・・・” とスルーしようと思ったが、このタイミングで空の方から謝ってくるはずがない。
嫌な予感がしてメッセージを見てみると、
『海、何やってるんだ?早くしないと兄ちゃん帰って来るぞ!』
海はその意味をすぐに理解することができず、首をかしげて頭の中を整理した。
「やっばっ!!」
突然大きな声をあげてしまい、店長が目を丸くしているのを見て、
「すみません。」
と謝った。
「大丈夫?」
「もう帰らなきゃ。今日約束あるの忘れてました。」
「それは大変。約束を破るのはよくないことだからね。」
海はイスから下りて背筋を伸ばし、
「どうもごちそうさまでした。とってもおいしかったです。」
と丁寧にお礼を言った。
「またいつでも遊びにおいで。」
「はい。ありがとうございました。」
とびきりの笑顔でもう一度お礼を言って外へ出た。
お店のドアを閉めると途端に顔は引きつり、頭の中はパニック状態のまま、もと来た道を引き返した。財布を持っていれば電車やバスで帰ることができたのに、一文無しでは歩いて帰るしか方法はなかった。今日は卒業祝いに3人で外食することになっていた。
「いつもより仕事を早く片付けてくるから、帰って来たらすぐに出かけような。」
と朝出がけに悠一から言われていた。普段はpm7:00ごろ帰宅するが、早くって何時なのだろうか?具体的な時間は分からなかったので、今すぐに帰って来てしまうかもしれないし、ゆっくり帰っても余裕で間に合うかもしれない。ただ、悠一が家に着いた時点で海がいなければ、どこで何をしていたのかと詳細を聞かれるのは間違いない。できればそれは避けたかった。
pm6:00を過ぎ、辺りはもう暗くなっていた。空に何とかごまかしてもらおうと何度か電話をかけたのに繋がらなかった。
「もうっ!使えないな!」
イライラしながらとりあえずラインを送って、あとはひたすら走り続けた。走りながら言い訳を考えたけれど、何も思いつかなかった。別に悪いことをしているわけではないので本当のことを言えばいいのだが、偶然見つけた夢の空間を自分だけのとっておきの場所にしておきたかった。無料でおごってもらったなんて知ったら、悠一はお礼の電話を入れるか、一緒にあいさつに行くなんて言い出すかもしれない。素敵な店長さんとの出会いも秘密にしておきたかったし、「またいつでも遊びにおいで」という優しい言葉を実現させるため、悠一には一切干渉されたくなかった。
こんなに一生懸命走ったのは、現役で部活をやっていたとき以来だろう。徒歩で30分かかる道のりを15分で走り切った。さっき食べたケーキのカロリーを消費することができたのでは?と思うくらいの運動量に、家に着いたときには全身汗びっしょりになっていた。駐車場に悠一の車がないことを確かめると、ホッとして全身の力が抜けていくのを感じたが、こんな所で脱力している場合じゃない。急いで玄関の鍵を探したが見当たらず、
“そうだ、空がいたから鍵かけないで出て来ちゃったんだ・・・”
何回かチャイムを鳴らしたが反応はなかった。携帯をポケットから取り出して空に電話をかけても応答はなく、さっき送ったラインもまだ読んでいなかった。部屋の電気はついていたのでいるのは確かなのに。
「もうっ、何してんのよ!!寝ちゃってるの?それともゲームしてて気づかないの?最低っ!」
最近空はオンラインゲームにどハマりしていて、自分の部屋にこもってずっとパソコンと向かい合っていることが多かった。悠一がいるときは大声を出したり長時間やっているとガミガミ文句を言われるので、鬼の居ぬ間はひたすらゲームに没頭していた。
“お兄ちゃんに言いつけてやるから!”
海は為す術もなく玄関先で立ちすくんでいると、遠くの方から車のライトが近づいてきた。それは悠一の車だった。藁にもすがる思いでもう一度チャイムを鳴らすと、玄関の明かりがついて鍵がカチャッと開く音がした。海は慌ててドアを開けて家の中に飛び込んだ。
「空ありがとう。」
「空のバカッ。」
矢継ぎ早に真逆の言葉を浴びせられ、空はキョトンとした。そして首を捻りながら、
「おまえ、何でそんなにびしょ濡れなの?」
うすいピンク色のワンピースは汗で色が変わっていたし、髪の毛も夏の部活後のように濡れていた。海はブルッと体を震わせて、
「もう邪魔だってば、そこどいて!」
空を押しのけ、急いで階段を駆け上った。
海の姿が見えなくなるのと同時に、玄関のドアが開いて悠一が帰って来た。
「おかえりなさい。」
空が何事もなかったように出迎えると、悠一は不思議そうな顔をして、
「ただいま。海、今さっき玄関の外に立ってたよな?」
「うん。」
「どこか行ってたのか?」
「たぶん。」
「おまえ、またゲームばっかりやってたんだろ?」
「そんなことないけど。」
海の話題から急に矛先を向けられ空は顔をしかめた。
「すぐ出かけるぞ。」
と言うと、悠一は階段を上り自分の部屋へ向かった。海の部屋の前を通ると、
「くしゅん、くしゅん」
くしゃみを連発するのが聞こえた。
「海、すぐ出かけられるか?」
ドア越しに聞くと、
「うん。」
と返事があった。
悠一が自分の部屋で支度を整え廊下に出ると、またくしゃみが聞こえてきたので、海の部屋のドアを開けて、
「大丈夫か?」
と海の様子を伺った。
「お兄ちゃん、おかえりなさい。」
海は着替えを済ませていて、バックにハンカチを入れて準備をしているように装った。
「ただいま。さっきからくしゃみばっかりして、風邪でもひいたんじゃないか?」
「ううん。ちょっと鼻がムズムズするの。」
「もう花粉症の時期だもんな。薬飲んどけよ。」
「分かった。」
海はうまく取り繕ったつもりだったが、悠一はベッドの上に脱ぎ捨てられたワンピースを見逃さなかった。普段から少々だらしないところが、こういうときに仇となってしまうのだろう。悠一は何も気づかないふりをしてリビングに下りた。
“帰って来てからだな”
今すぐに問い詰めたい気持ちを抑えて、それほど急を要する事態ではなさそうだし、今日は卒業祝いということで少しだけ目をつぶることにした。卒業式に出席してあげられず2人に淋しい思いをさせてしまったことに対して、申し訳なく感じていたのだ。お腹も空いたし、何よりも険悪なムードの中で外食するのは避けたかった。
車で15分ぐらいの行きつけの焼肉屋さんに着くと、平日なのに店内は大勢のお客さんで賑わっていた。空と海はソフトドリンク、悠一はノンアルコールビールで乾杯をした。
「中学卒業おめでとう!」
「3年間いろいろあったよな。何度学校に呼び出されたことか・・・。保護者の中でオレが断トツだろうな。一緒に生活するまでは、おまえらがこんなに手がかかるとは思ってもいなかった。それにしても、学校の先生っていうのは大変な職業だよな。特に中学生なんて思春期真っ盛りの多感なやつらが何百人といるんだもんな。本質的には子供好きなんだろうけど、それだけじゃ絶対に通用しないだろうし、よっぽど忍耐強いとかしっかりした教育ビジョンがないと続けられないよな。オレには絶対に勤まらない。おまえたちお世話になった先生方にちゃんとお礼言ってきたか?どうせ友達とキャーキャーワーワーやって、ろくにあいさつもしてこなかったんじゃないのか?」
悠一は1人でペラペラと、思い出話や感謝の念をしゃべりまくった。空と海はすでに卒業式で中学校生活とお別れをしてきたが、悠一は今ここでそのセレモニーを行っているようだった。ノンアルコールなのに酔っ払ってくだを巻いているような悠一の機嫌を損ねないように、空も海も慣れた様子で相づちを打ち、適当に聞き流した。お酒が入っていたらそのうち絶対に泣き出すだろうなというぐらい感傷に浸っている悠一を見て、“お兄ちゃんには本当に苦労かけたなぁ”と当事者2人が思ったかどうか・・・。目の前のおいしいお肉を頬張りながら、“お兄ちゃんめんどくさい”という心の声が聞こえてきそうな気もするが。
3人はお腹いっぱい食べて店を出た。
帰りの車の中で、悠一は助手席に座っている海にやんわりと質問を投げかけた。
「そういえばオレが帰って来たとき、海、玄関にいたよな?」
つづく