1.自分のことは棚に上げて
日曜日am11:00。予約時間になったが、ヒップハートに月美の姿はなかった。次の予約もびっしりと詰まっていたので、遅れて来た分時間を延長することはできない。10分経過した時点で、眞木野は月美の携帯に電話を入れた。呼び出し音がしばらく鳴ってから、留守電のメッセージが流れた。今日の担当は眞木野なのでまだよかったが、もし芳崎だったら、2回目にして早くも泣かされていたに違いない。
20分ほど経ったとき、入り口のドアが開いて、バツの悪そうな顔をした月美が入って来た。
「すみません。遅くなってしまって・・・。」
申し訳なさそうに謝ると、
「月美さん、お待ちしてました。何かありましたか?」
眞木野は穏やかな口調で尋ねた。
「あっ、いえ、ちょっと・・・。」
口ごもっている月美を見て、眞木野はピンときたようで、
「時間がないので、今日はトレーニングはできませんね。そのままヒーリングルームに行きましょうか。」
笑顔で優しく言われ、てっきり怒られると思っていた月美は戸惑いを隠せなかった。
眞木野のあとについて部屋に入ると、ソファに座るように勧められ、温かい紅茶を出してくれた。テーブルを挟んで向かい合ってソファに座ると、眞木野は世間話でもするかのように月美に尋ねた。
「月美さん、この1週間、楽しいことはありましたか?」
遅刻した話題になると思っていたので、月美はこの質問に首をかしげ、しどろもどろしながら、
「えっと・・・楽しいことはあまりなかったです。」
「そうですか。では何か悩んでいることや、気になることがあれば話してみてください。」
月美は眞木野が怒っていないことを感じとり、
“そうだ、ここって心を癒してくれるところだった。”
ホッとして、今一番思い悩んでいることを話し始めた。
「えっと・・・最近、家庭教師をもう1件もつことになって、中1の男の子なんですけど。」
「そうですか。中1男子っていうと、ちょっと難しい年ごろですね。」
「はい。まだ2回会っただけなんですけど、あまり打ち解けてくれなくて苦労しています。」
「シャイな子なんですね。私だったら若い女の先生と1対1で勉強できるなんて、最高に幸せって感じますけどね。」
眞木野はサラッとこんなことを言えてしまう、プレーボーイ的な一面もあった。
「そんなことないと思います。私いろいろと口うるさいんで。」
「月美さん口うるさいんですか?おっとりしていて、そんな風には見えませんけどね。」
今、月美は家庭教師モードに入っていて、本人的にはキリッとした先生の立場で話を続けた。
「顔合わせの日だったんですが、部活はとっくに終わっているはずなのに遅刻してきたので、初対面だというのに叱ってしまいました。」
「はあ、遅刻ですか?それはいけませんね。どうやって叱ったんですか?」
「遅刻はまわりの人に迷惑をかけるからいけません。どうしてもやむを得ない事情があるときは連絡を入れなさいって。」
「そうですよね。私も月美さんの意見に同感です。」
「それと・・・。あっ、何でもないです。」
「ん?気になりますね。それと何ですか?」
「えっと、それはちょっと・・・。」
「もしかして、お尻でも叩いたんですか?」
月美は照れくさそうに、
「えっ、・・・はい。軽くですけど・・・。」
と答えた。
「思春期真っ最中の男の子には、効果てきめんだったんじゃないですか?月美さんみたいなお姉さん的な存在の女性にお尻を叩かれたら、恥ずかしくてたまらないでしょうね。」
「はい。次のときはギリギリだったんですが、息を切らして走って帰って来ました。」
「月美さんは、おしおきの極意を心得ていますね。」
「いえ、そんなことないです。」
「生意気盛りの中学1年生の男の子が、おしおきによってそれだけしっかりと反省できるんですね。やはりお尻叩きのおしおきというのは、幼少期だけではなくいくつになっても必要なことなんでしょうね。」
「はい。私もそう思います。悪いことをしたときや決まりを守れなかったときは、しつけとしてのおしおきは必要だろうし、言葉で言い聞かせるよりも効果的な気がします。」
会話の中で月美は眞木野の誘導尋問にまんまと引っかかり、自分の首を絞めるようなことをペラペラと話してしまった。自分が数分前ここに遅刻して来たことなんて、すっかり頭から消えてしまっていた。家庭教師の話をしているときは、生徒をしつけているしっかりとした月美先生の顔に無意識のうちに変わっているようだ。
「月美さんっ!」
今までとは違う鋭い声で突然名前を呼ばれ、月美は「えっ?」と言ったあとすぐに我に返った。
「あっ、私・・・。」
「月美さん、やっと分かりましたね。」
「あっ、どうしよう・・・。すみません。」
月美は恥ずかしくて顔を真っ赤にして謝った。調子に乗って星の遅刻についてしゃべっている場合ではないことに、今やっと気がついた。
「それでは今日遅刻した理由と、連絡を入れなかった理由を説明してください。」
眞木野の穏やかな言い方はさっきまでと変わらなかったが、目は笑っていなかった。叱られていることを認識するには充分な威圧感が漂っていた。
「起きるのが遅くなってしまって・・・。」
「寝坊したんですね?」
「はい・・・。」
「この間、そのことに対しておしおきしましたよね?まああれは体験ということで、だいぶ軽めのおしおきでしたけど。やはりある程度の痛みを伴わないと、しっかりと反省できないんでしょうね。今回はもう少し厳しくさせてもらいますね。それから、連絡を入れなかったのはどうしてですか?」
さらりと今日のおしおきを宣告されてしまい、月美は動揺した。しかも「もう少し厳しく」というのはどういうことなのか?強く?それとも多く?いろいろと考えることが重なって、頭の中がパニック状態だった。
「月美さん?」
「はい。えっと・・・一生懸命、早足で歩いていたので、連絡を入れることなんて全然思いつかなくて。」
「時間になっても姿が見えず、その上、何の連絡もない、携帯もつながらないというのは、待っている側としてはとても心配だということは分かりますか?どこかで事故に遭ったのかもしれない、何かの事件に巻き込まれたのかもしれないと、よくないことばかり考えてしまうものです。」
眞木野の言葉は月美の心を揺り動かし、心配をかけてしまったことを本当に申し訳なく思った。
「考えすぎだよ!そんなことある訳ないじゃん!」
海ならきっとそう言うに違いない。
am9:00に起きて、のろのろと出かける準備をしていたため、1本電車に乗り遅れてしまった。それでも5分ぐらいの遅刻だろうと思い、あまり気に留めていなかった。実際は電車の到着が少し遅れたり、駅でトイレに寄ったりしていて、ふと時計を見ると大幅に時間が過ぎてしまっていた。マイペースというか時間にルーズというか、今まではそれで何とかやり過ごせていたのだが・・・。
眞木野に言い訳がましく事情を話すと、
「自分ではその生徒さんに、同じようなことでお説教しているのにですか?自分のことを棚に上げて他人にとやかく言うのは感心しませんね。まずは自身の行動を省みる必要がありますね。さて、月美さんはどうしたら反省して、心を入れ替えることができるんでしょうね?」
月美は返す言葉がなかった。
眞木野がこんなにはっきりと怒っている態度を見せるのは初めてだった。怒鳴りつけたり、感情をあらわにするのではなく、核心をつく言葉が骨身にこたえた。
つづく