2011年3月11日なにしてた? ブログネタ:2011年3月11日なにしてた? 参加中
5 years has passed since that 2011 Tōhoku earthquake and tsunam.
I am grateful to the people all over the world It is following even now.
The people all over the world did that prayer, encouragement, and act Japan and the Japanese people.

◆ 3.11の当日。その瞬間
地震の瞬間はパソコンに向かって何かの原稿を書いていました。
納期があるようなものではなかったと思いますので、
ブータンGNHに関する翻訳をしていたのだろうと。
ぐらっときて…とりあえずストーブを止めてトイレに逃げました。
一応トイレの用足しもして…だけどひとつ間違うと閉じ込められるかもしれないと考え、
扉をあけていました。
かなり長い時間。寒いし…。
こんなに長く続く地震ははじめてでした。
「いつおさまるのだろう、いつ揺れがとまるのだろう」
…ドキドキして…でも冷静でいないと危ない…じっとしていよう。
長い揺れがおさまり、トイレから台所に戻ると、食器棚から食器が落ちて割れていました。
…ということは…本とかも…と思ったら、
本はかなりぎゅうぎゅうに詰めていたので、1冊たりとも落ちていませんでした。
そうか…本は詰め込んでいれば大丈夫なんだと…。
酔っぱらったようにくらくらしていました。
揺れはおさまったのですが、身体は余震中。
このとき以降、左耳の耳鳴りが消えないんです。
夫の部屋、息子の部屋チェックして、すぐに片づけなければならない危険はないと確認後、
割れ落ちた食器を片づけました。
この時、破片を踏んだため、ほぼ半年治療のため皮膚科に通いました。
しばらくしっかりと歩けませんでした。
外出してみたらパニくっている老夫婦がスーパーに水や保存食を買いに来ていました。
なかには、おじいさんがガスが止まったからとカセットコンロのガスを買いにきていらしていたので、ガスは震度4で止まるけれど、落ちた栓をあげれば大丈夫ですよと教えてあげました。
水はすでになかった…まさかの原発メルトダウンで水がこんなに不足するとは思っていませんでした、その時。
帰宅して、twitterをずっと読み続けました。
「バカ発見装置」と思っていたtwitterは侮れない。
状況がテレビより生々しく伝わってきます。
その当時は、まだ日本人・日本語・日本在住者のfollowが多かったので。
※今、アメリカ在住の人が一番多く、そして次がインド。災害のとき、
海外経由で状況を知れるのだろうか…という不安があります。
息子と夫の連絡を待ちながら、眠れない状態で夜を明かしました。
◆その頃夫は…。
液状化した道を歩いて会社に戻っていました。
幕張駅前の横断歩道で地震が。
そこから船橋駅の会社に向かい…電車がないので…されに松戸市の自宅まで歩いて。
◆その頃息子は…。
ジャニーズの番組で補佐の仕事をしていました。
観覧のお客様がいらっしゃる公開収録だったのですが、
あれだけ大きな揺れでも、タレントさんの写メ撮っている女性たちに困惑したそうです。
ですが「みなさん壁に近いところに立ってください。それからみなさんと避難しますから」
と言っても…タレントさんが間近にいらしたので、揺れなんて気にしなかったようです。
長い時間続いていましたし、タレントさんも事務所の方が避難させてしまったので、
いなくなってようやく避難するのだという空気になったようです。
非常階段で誘導し…確か…TBSだったとあやふやな記憶…。
その後、息子、帰宅難民。
そのお客様を誘導していたときに思っていたことを、
言葉に発さなくてはならない状況になりました。
帰宅途中、綾瀬駅でどなっているオヤジを諭した話をききました。
一人一人の命が大事でしょ☆見ず知らずのオヤジに説教青年

◆夜をあかし日付が変り
夫も息子も帰宅しました。
どちらもメール送信したそうですが、届いていませんでした。
届いたのは数日後。
家族全員、浅い眠りで翌日の午後2時まで布団の中。
ですが、余震も…辛かった。


地震の後、家族になったジャム。
で、この話は続きます。次の記事もよろしく。