ムビウス通りには誰も見たことのない有名な細道がある。
雨の日になると、ムビウス3番通りと4番通りの間に路地が現れるのだそうだ。
その路地の向こうにはツタで絡まれた
レンガ建ての古い大きな門のある屋敷があり
門の隅のほうには
どこか湿っぽいゴミ箱がひとつ置かれている。
そのゴミ箱が赤色に光った時、もう元の世界には帰ることができない・・・。
「・・・・館の主人は噂だと人食いの老人らしいぞ!でな、
その館に行ったものは誰も元の姿では帰ってこないんだってさ。」
と、ニコスは自慢げに話す。
ニコスは黄色い瞳に跳ね馬のような黒髪をした少年で、けらけらと笑うのが特徴だ。
噂話が大好きでどこからか不思議な話を持ち込み、好んで話題にしている。
ニコスはマールにまず最初に噂を広めるのが日課だ。
マールは茶色い髪と赤い瞳の内気な少年で、
いつもニコスの話を楽しそうに聞いていた。
「一度行って見たいよな~♪じゃあな!」
マールの感想を聞く前に
言いたいことを言ったら
そそくさと、どこかへ行くニコス。
彼は噂話を広めることが好きなのだ。
「・・・。」
マールにとって彼は唯一の友達だった。
彼が友人を決める基準はやさしく、
目を見て会話さえしてくれれば、それはもう立派な友人だ。
いや、ニコスが本当の友達かどうかなんてわからない。
マールは彼のことをほとんど知らない。
ニコスは休み時間になると、マールにときどき話をしに来る少年。
ただ、それだけの関係だ。
中学生になって以降、
マールに話かけてくれるのは
ニコスだけだったから
マールは彼のことを友人だと思いたかったのかもしれない。
話が終わると
すぐどこかへ行ってしまうニコスに
話の感想でも何でも、とにかく何かを言おうとするが、
口が開くものの声が出ない。
「えぇっと・・・」
なんて風にマールの頭の中で話す言葉がまとまる前に彼はいなくなる。
だから、マールはいつも
去っていく彼の姿を見て、何も言えないことが心寂しいと感じていた。
「少し行ってみたいな・・・」
マールはそうつぶやきながら
さっきまでニコスがいた場所をぼんやり眺めた。
マールは自分に友達がいないことを知っている。
できない理由は簡単だ。
話題がないから。
ちゃんと、話ができないから。
もし話したとしても教科書に書いてあるようなことしか言えないから。
彼は、そう思っている。
もしかしたら噂の場所へ行けば
みんなおもしろがって
僕の話を聞いてくれるようになるのかもしれない。
マールはそう考えていた。
想像は膨らむ。
マールを取り囲むようにの話に耳を傾けてくれるみんな。
そのモチーフはみんなに笑顔を振りまくニコスの姿。
そんなニコスの話題はマールにとって憧れでもある。
「話題があれば・・・うまく行くのかな・・・?」
休み時間というものは
特定の友人のいないマールにとって見ればとても孤独な時間だ。
遊戯で遊んでいる子、
友達と楽しそうに会話している子は
何十もの壁で仕切られた別世界の人間に見えた。
ショーウインドウから見ている世界は
手を伸ばしても決して届くことはない空のかなたにある。
そんな部厚い壁を平気で突き破って別世界からやってくる情報屋ニコス。
マールには彼の姿が少しだけ、うらやましく見えているのは間違いない。
普段、ニコスと話すとき以外休み時間は
マールは教室の自分の机に座り
次の時間の教科書の準備をする。
準備って言っても
教科書をかばんの中から用意する程度で
終わった後は、する事もない。
仕方無しに
無駄に教科書のページ数を何度も何度も数え、暇を潰す。
いつしかそれは日課となってしまった。
「数学は192ぺ-ジ・・・か。」
と、つぶやたマールの言葉にはため息が混じる。
いつの間にやら数学の教科書の全ページ数まで覚えてしまった虚しさを肌で感じていた。
『マール!、マール・AD・ボルフクック!!』
ぼんやり眺めていた黒板の方から金切り声がしてきた。
すでに授業は始まっていて問題を解くようにと指示があったらしい。
マールはあわてて教科書を手に取り読み始めた。
「教科書の21ページから・・・」
前にいた国語の先生は怒り交じりま顔でマールを見ていた。
マールの目の前にあるのは数学の教科書。
「あっ。す、すいません。」
次の時間数学だと思っていたマールはあわてて国語の教科書を取り出し
指示された場所を読み始めた。
クラスのムードメーカが同じような事をすれば
周囲にはそんな彼らを和らげるような笑いが漂うだろう。
だけど、隣とぺちゃぺちゃと、会話している人間はいるものの
マールに対しては無関心。
どちらかと言えば次に自分が当たることを心配している人間が大半だ。
「マール、早く!」
せかす先生。
クラスは、マールに関心がない。
叱られている彼に対して同情の欠片すらなく
注目を浴びる事のない商品は腐れ行くばかり。
彼自身はひどく居心地が悪い。
要領の悪さと言うか興味をもたれない姿と言うか。
中学生になって早一ヶ月。
マールは常に頼れる存在がいないことをひしひしと感じていた。
21ページはタイトル『私の好きな歌』という小説の一文だ。
本読みの極意は気持ちを込めて読むことらしい。
何の因果からか、昔から
気持ちをこめて読む人ほどうまいとされている。
『気持ちを込めて読む』なんて簡単には言うけれど、
周りの助けがないとなかなか難しい。
クラスのリーダーなんかが読めば
例え多少、下手だったとしても読み終われば歓声が待っている。
それに引き換え、
浮いた人間が演劇じみて読めば、
目に見えない氷の槍が複数の方向から飛んでくる。
マールには周囲の温かい目もなければ期待もない。
本気で演じて見せたとしても、
周りは温かい目で見てくれるどころか冷たい視線を送られるだけ。
いや、冷たい目線があればまだいい。
それすらない人間はただ、自分の心が削られる。
マールには
『気持ちを込めて読む』
なんて気恥ずかしいことなんてできるわけもなく、
今回も彼は、ただ機械のように国語の21ページを棒読みしていた。
悲しさは音に現れる。
マールの音読は悲しさと元気のなさが入り混じり
先生から激が飛ぶ。
「聞こえないぞ?」
そう言われても
今の状態ではこれがマールの全力だ。
学校はマールをあきらめ、
授業はどんよりした苛立ちから来る先生の激が飛び、
休み時間は孤独。
唯一の友人だって、毎回マールには合わせられない。
そんな繰り返しの毎日。
それでも、彼にとって見れば
授業中はまだ手を動かしているだけマシというもの。
こんな気分が悪くなるだけの生活を
ずっと続けないといけないと思うと嫌気がマールの胸を突き刺す。
彼は、正直学校が嫌いだ。
いや、社会全体が嫌いなのかもしれない。
学校へと行く理由なんてものは
家にいたら
「ろくな大人になんてなれないぞ」
と、俗説じみた父親に叱られるからにすぎない。
早く帰りたい。
彼が授業中唱える、魔法の呪文だ。
『キーンコーンカーンコーン』
授業に拘束されいる時間も
聞きなれた音と共に終わりを告げた。
授業終了のチャイムがなると同時に
教室は息を吹き返したかのようにざわめきだつ。
ワイワイ、ワイワイ。
後はもう帰るだけ。
今日はもう週末だ。
普段なら後は帰り支度をして終礼が終われば
みんなスクールバスに乗り込み、それぞれの家へと向かうのだけど
金曜の夕方は、別話。
後から続々と
何人も母親が迎えにやってきて
それぞれの帰路に着くためか、のんびりしている。
みんな、明日何をするかで持ちきりだ。
「明日どこ行くの?」
「遊びに行っていい?」
ところどころから聞こえてくる週末の約束。
だけど、マールには夢のまた夢の会話。
無駄に明るい
教室の電気がマールの目にしみる。
外を眺めて湿った目を癒した。
空は、灰色で覆われていて、今にも雨が降り出しそうだ。
みんなが帰り支度をしている頃、
外は雨が降り出そうとしていたことをいち早く、発見したにもかかわらず
「・・・言うほどのことでもないか・・・。」
と、自己処理。
彼は、誰にも報告する相手がいないと
『雨だ。』と言ったところで虚しさが増すのをよく知っている。
「あ、雨?」
誰かが言った。
するとすぐさま天気の話題に。
何人かは明日のことを心配し、
また何人かは今から大雨にならないかと
わくわくしながら期待している。
マールはと言うと、
もう知ってますよとつまらなそうな顔し
頭をかきながら
ぼんやりと雲を眺めていた。
雲の流れはやたらと早い。
「はい、終礼をはじめます。」
担当の先生の掛け声と共にはじまる簡単な終礼。
いつもなら休み中の注意事項の後
さっさと終わり、みんなそれぞれの帰路につく。
でも、
今日は終礼が終わると同時に、
スクールバスの元へと走る生徒もいない。
混雑しているバスステーションも
割り込みをしてくる人もいない。
迎えのいる人の余裕だ。
マールは母と弟が数年前行方知れずになってから父親と二人で暮らしている。
父は仕事に忙しく週末に迎えに来たことなど一度もない。
そのため、彼は週末時間の許す限り、
のんびりとバスステーションへ移動する事ができる。
マールは帰り支度をすませ、教室を出ようと準備した。
かばんを持ち歩き、教室のドアに近づいてもさよならとすら声かける人もいなく、
何の邪魔もなく、スムーズに教室を出ることができた。
廊下を歩いていると
ただ、バスステーションへと向かう
マールの足音だけが妙に大きく響き渡る。
途中通る教室の中から聞こえてくる笑い声は
マールを受け付けない。
教室のざわめきは
足音をさらに重い音にしていた。
学校の玄関から
数分歩いたところにバスステーションがある。
ステーションは
それぞれの帰りの方向にあわせていくつか設けてあり
今日は、ポツリポツリと
指折る程度の人数がしか立っていない。
バスがやってくるのは終礼10分後。
誰もいないバスステーションは席争いをする必要もなく
彼はただ淡々とバスが来るのを待ち続けるのみ。
バスを待つ他の仲間達は
マールとは帰りの方向が違い、
別のバスステーションにいる。
同じ方向の者がいたところで、話すことが苦手な彼には話す事など何もない。
ぽつぽつと雨が降ってきたようだ。
マールが手のひらを表にすると確かな感覚がそこにあった。
周囲も傘を差して待つ気でいる。
しばらく迷ったものの数分後、マールは雨が振る中、
傘をさし自分の家へと向かうバスが来るのを待ってた。
ひとつ、またひとつとバスがやってきて
それぞれそのバスを待ちわびていた人を連れ送って行く。
もう、マール以外に待ち人はいないようだ。
自分だけ舞踏会に連れて行ってもらえななかったシンデレラの気持ちがよく分かる。
ここで聞こえるのは雨音だけ。
傘で隠れた視界から見える雨粒は
妙にやさしい。
これで寒くなかったのなら彼は眠っていただろう。
だけど、やさしさとは裏腹に10月の雨は冷たく、
バス停で立っている人間の心をくじく。
終礼後20分以上経ち
乗客がいない他のバスまで何台も走り去って行った。
両親お迎え組も
校門前にいた家族に連れられ、
校舎の周辺は人影がない。
バスステーションから見えていた学校は
ともし火を失った灯台のように聳え立ち
校舎に取り付けてある大きな時計は
年をとった病人のように暗く沈んで見えた。
「・・・来るのが遅い。」
雨の日はバスが何分か遅れてやってくる。
小学校からの経験上そうだ。
「遅いなぁ・・・。」
そうつぶやきながらも
マールは、この誰もいないバスステーションは良いものだと感じていた。
孤独は孤独。
でも、いつもなら大勢の中で孤独を感じるのに
今なら、ひとりを感じても
孤独を感じるのは誰もいないからだと理由をつけて納得できるから。
「バスが遅れたせいだ」
それに誰もいないバスステーションは
自分だけがそこにいる生きた人間で
なんだか世界で一番偉くなっている気がする。
いつもの孤独を紛らわせるには
そう思い込むしかない。
『ザ~~~~』
雨音は、どんどん大きくなっている。
いよいよ、マールの傘の力ではどうしようもない。
濡れるのを覚悟で待つしかなくなっていた。
「遅い・・・」
何度、この言葉を多用しているだろうか。
スクールバスは20人乗りの小型バスで
バスがやってくると運転手のマッコリーさんに挨拶をし
さっさと、みんな乗り込む。
さっきからマールの頭の中では
バスが来たときの様子をシュミュレーションしっぱなしだ。
「まずマッコリーさんに挨拶し・・・。」
普段ならマールはマッコリーさんに挨拶はしない。
いや、していても他の生徒達の声にさえぎられ届かないというのが正しいのだろう。
いつもなら列になってバスの乗り込むと
マールのか細い声は声の大きな体格の良い男子にさえぎられ、
塗りつぶされた条例のような扱いとなる。
でも、今日はひとり。
ちゃんと挨拶しなきゃいけないなと気合が入る。
彼の挨拶デビュー。なんだか、どきどきする。
さっきまでまだ、灰色じみていた空の色も
傘に気を使っているうちに気がついてみると黒く染まっている。
気が滅入る。風もかなり強くなって吹いてきた。
さらに10分。20分。待てど暮らせどバスがやってくる気配はない。
バスステーションの周りの道はずいぶん濡れて色が変わってしまっている。
何台も何台もバスは来ていたけれど全部ハズレ。
ハズレのバスの姿を見るたびに反応してしまうのはうんざりだ。
マールは
地団駄を踏みながらボソッと言う。
「まだかな・・・。」
雨にうたれたわけでもないのに髪の毛が
まるで海に浮かぶわかめのようにしなびていた。
もう10月になろうというこの時期
雨に降られれば足元は冷たく
なかなか従順に待っていられない。
マールはどこかに雨宿りできる場所がないかと周囲を見渡した。
バスステーションから少し離れた校舎には屋根がある。
「あそこにいよう。」
そう言うとマールは足を進めた。
雨宿りできる場所に着くと
大きなため息が出た。
「はぁ・・・。」
バスが来ていないかと
バス停にちらりちらりと視線を送る、あからさまに疲れている中1の少年。
「よく見えないなぁ・・・。」
大きな雨粒が無数に降り注ぎ
半透明なガラス板が置いてあるかのように
マールの視界をさえぎった。
校舎は警備員すらいないようで沈黙を保っている。
普段ならまだ明るいはずのこの時間帯も今日は厚い雲が覆い、
空がサングラスをつけているかのようだ。
ドンドン暗くなる空をとめることはできない。
目を見開いてもバス停の方を良く見ることができなかった。
校舎にひとり残されていると言うことはなんて寂しいものだろうか・・・。
何もする事のない時間はただ冷たく、ぬくもりがない。
その上、思考は停止し
なんだか半分眠っているかのような錯覚を引き起こす。
ここにいるマールも
目を開けながら寝ているかのようにぼんやりと
寂しくない創造をするばかり。
彼の想像は・・・
まずはマッコリーさんに挨拶。
家に帰ってから宿題。TVを見て、マンガを読んで、
それから、彼の父さんに言われているように勉強タイム。
「そういえば今朝、父さん、俺のシェーバー知らないかなんて言ってたなぁ・・・。」
マジメだね。
これが、彼の寂しくない想像らしい。
屋根の外の雨の勢いは止まる事を知らず
傘から垂れているはずのしずくはいつの間にか
もう垂れなくなっていた。
ふと我に返ったマール。
遠くの方でヘッドライトの光が見える。
「バスが来た!早く行かないと」
そう言いマールは
せっかく雨宿りをしていた事も忘れ
すばやく傘を差し手荷物を持つと
大雨の中、走ってバスステーションへ向かった。
プシュー。と音を立てバスは止まった。
止まると同時に開いたドアは
数秒も経たないうちに閉まる。
走り出すのだろうか。
「待って~~~」
マールは心の中で叫びながらバスの元へと走っていた。
せっかく差した傘も邪魔になり、閉じ全力で走る。
ピシャッ・・・ピシャッ・・・。
水溜りが足元に跳ねる跳ねる。
一瞬、足首に水がかかり動きが鈍った。
だけど、足元なんか気にもならないくらい
全身が雨に打たれ、濡れた服の色が変わっている。
そんなことには気にも留めずマールは走る。走る。走る。
発車しようとしていたバスは
マールに気がついたのか
途中で止まり、
入口のドアを空け待っていてくれた。
「はぁはぁ・・・どうにか間に合った。ありがとうマッコリーさん!!」
運転手の顔も見ずにマールは礼を言い乗り込んだ。
息を切らしていて上を向く余裕なんてない。
「・・・・。」
運転手からの返事はなかったが
あまり気にも止めず
マールは一番奥の席へと向かっていった。
バスの中は
外が大雨の日のためなのか、
それともマールひとりだけしかいないせいなのか
妙に薄暗く、がらんとしていてとても静かだ。
マールの激しい息遣いが
車両内どこにいても聞き取れる。
早く、呼吸を整えたい。
なぜか、そんな心理が働き、胸を押さえた。
帰りのスクールバスは
それぞれを家付近まで送ってくれる。
乗車駅は学校だけだ。
今日の客はマールひとり。
どの席だろうとマールが好きに使って良い。
贅沢な空間だ。好きなだけどこの席を使おうかと悩める。
一番後ろの席に座ろうと決めていたくせに悩むのだから
コレはもう、彼の趣味としか言わざるを得ない。
ぼんやりと車内を見つめる間は
外の轟音はもう聞こえず
ただ、雨粒が窓を叩く音が気になる程度だった。
時折吹く風のため、床が揺れている。
奥の席へ歩いている途中、マールは
ポタポタと髪の毛からしずくが落ちていることに気がついた。
「我慢しなきゃな・・・。」
頭を掻くように
マールは髪をかき上げ、
手についたしずくを振り払った。
誰もいない
貸し切り状態のバスの匂いは、からりと冷たく
湿った手で乾いた空気に触れる事ができる。
乗客の湿っぽい臭いだけが
妙に異臭を放ち、自分の臭いを感じる事ができた。
マールは手に持っていたカバンと傘を
自分の座る席の隣に置いた後、座った。
後ろの方からギシギシ歯切れの悪いワイパーの音が聞こえ、
窓の外を見ようとしたが外は暗く、雨に濡れた疲れた顔のマールが写っていた。
遠くを見つめるが、まるでトンネルの中にでもいるようでひどく視界が悪い。
「雨、すごいな・・・」
一人しかいないせいか思ったことがついつい口に出る。
呼吸も整い、周りを見る余裕もできてきた。
服は表面上、濡れてはいたが、
中にまで染みてはいないから体は寒くなく、
家に帰って暖かくすれば問題ないのだろう。
なんとなくマールは服をはたきだした。
そんなことをしても
乾くわけはないのだがこんな事をしてしまうのは
マールのクセだ。
濡れた服はとりあえず問題ない。
だけど、大問題がひとつ。
気にすべきはカバンに入っている教科書。
コレばかりは体を暖かくしてもダメで
カバンの隙間から水が入っていたらかなり悲惨な状態になる。
「大丈夫だろうな・・・」
マールは恐る恐るカバンの中身を確認した。
「・・・コレくらいなら大丈夫だな」
教科書は上半分だけ色が変わっていたが
そんなに気にする程でもなく
マールが言うようにほっといても大丈夫そうだ。
「・・・ん?」
よく見ると座席のシートの色が青い。
いつもなら赤いシートのはずなのに。
「・・・シートが青い?」
マールは席のシートがいつもと違う事にようやく気がついた。
バスの中が暗く、乗る時は焦っていたため気がつくのが遅れたようだ。
大雨の外を見ると
時折光る街頭で外の様子を確認する事ができた。
どう見ても心当たりのある街並みではない。
「間違えた?すぐに降りないと・・・でも・・・」
おはよう、ありがとうなど、
形式的な挨拶だったならば
それはいつでも誰にでも簡単にできるかもしれない。
だけど、マールは知らない人に声をかけるのは苦手だ。
もし、そんなことができるのなら、
入学式の頃から同級生にちゃんと話しかけている。
それほどに、形式的でない会話は難しい。
本当はすぐにでも大声で運転手へ言いたい。
「運転手さん、ボクの家方向が違うので下ろしてください!」
と。
だけど、お願いをして拒否される事が怖かった。
それが、運転手に声をかけることにためらってしまう原因だ。
とりあえずマールは
運転手のそばまで行き、それを言うことにした。
座席の奥から荷物を持ちだし、
運転手の方へと近づいて行った。
一歩、一歩と運転手の元へと近づくにつれ
胸がどきどきし、手がまごつく。
知らない人との会話は妙に気恥ずかしく意見が言えない。
ただ一言、聞いてもらうだけなのに。
今、運転手のすぐ後ろにいる。
手に持っていた荷物を降ろし意見を言う体勢はばっちりだ。
背中が冷たい。
言わなきゃ。言わなきゃ。そう思うものの
最後に必要な言葉が出てこない。
覚悟を決め
呼吸を整え思い切って言った。
「う、運転手さん。」
それでも声は遠慮気味。
今のところ
彼の細い声は雨滴をふき取るワイパーの音に
負けていない。
大丈夫、聞こえているはずさ。
小さな勇気は運転手の方に届いたのだろうか?
運転手は帽子を深くかぶっていて
こちらからではよく顔を見ることができず
聞こえたかどうかはわからなかった。
「あの・・・バス間違えたみたいなので下ろしてもらってもいいですか?」
マールは大きく息を吸い、一気に言い放った。
ギットンギットンと
ワーパーのゴムはリズムを刻んでいる。
すると、運転手はマールの方を見ずに答えた。
「今日はキミひとりだから、家のそばまで送っていこうか?
本当のバスの運転手には言っておくからさ」
渋めの声。どうやら運転手は40代くらいの男性らしい。
「・・・ん?」
気のせいだろうか?運転手のいる方向とは
別の向きから声が聞こえた気がする。
「いいのかい?送るよ?」
マールは送りますという申し出をすかさず断った。
「いいえ、結構です。ここ家から近いですし・・・」
手に持った荷物をぎゅっと握り締めながら
小さくぼそぼそと言葉が出る。
ここがどこだか分からないくせにとっさに出た嘘。
これ以上、知らない人に迷惑かけたくなかった。
知らない人に関わりたくなかった。
いや、それよりも気まずいこの流れ一緒にいたくなかったのだろう。
「ここで止まるけど、本当にいいのかい?」
と言うバスの運転手をよそに
マールはすぐさま、バスを降り傘を差した。
続く