みなさん、マスクをしていますか?

僕は、殆ど不必要だと思って最低限でしかマスクをしておりません。

以前にも書きましたが、既に僕は新型コロナウィルスの免疫を獲得しており、今より悪い状態であっても人に感染させる可能性は低いと保健所からのお墨付きをいただいたからです。

しかしながら、他人が僕の状態を知っているはずもないので、人が嫌がらないように、人との摩擦を避けるために、お店等に入るときは形だけマスクをしている次第です。

 

しかし、現在、国がマスクの必要がない場合をお知らせしていますし、今の時期には熱中症予防のために、懸念が無い場合はマスクを外すように推奨しています。

例えば、一人で町を歩くには、マスクは必要ありません。

屋内であっても図書館で本を読んだり、映画を見たりするにはマスクは不要となっています。

つまり、マスクは、飛沫感染を予防する手段と考えられており、飛沫は咳やくしゃみあるいは、発声により生じるわけで、人々を見ると絶えず咳やくしゃみをしている人は少なく、大きな声で独り言を言っている人も殆どおりません。

しかし、この事を理解しているのか、していないのか、世の殆どの人は、未だにマスクをして生活をしています。

もしウィルスが空気感染をするならマスクでは対処できません。ウィルスはマスクを通してしまいます。

たとえ飛沫感染が原因であったとしても、マスクの着用率が100%に近い日本でこれほど感染が防げなかった理由を考えるとマスクの効果は怪しいものです。

もし本当に信じているのなら、おまじないや護符と変わりありません。多分、霊的フィルターで悪霊が体内に入ってくることを防いでいるのでしょう。誰がこんなことを信じますか?しかし、現実はそう見るしかありません。

 

帽子のように外出する時の習慣になってしまったのでしょうか?

そういえばカラフルなマスクが販売されていますね。

しかし、マスクは帽子と違って健康を害してしまいます。

僕は、マスクをすると数分で脳が酸欠状態になって頭痛が起こります。

昔は、そんなこと感じなかったのですが、マスクを義務化している職場で頭痛が起こり、何故かなと思うとマスクだと気付き、マスクを外した途端、頭痛は治まるという事が多々ありました。それ以来、鼻はマスクから出すようにしています。

僕は、鼻で話をしませんので、飛沫は飛ばないはずですし、誰からも文句を言われた事はありません。

もしかするとコロナ禍で多量に生産されているマスクの中には、頭痛を起こさせる原料が含まれているかもしれないな・・・とも考えられます。

 

さて、そんなマスク事情ですが、これは国民性なのかもしれません。

自主性や自己を無くした国民。

自分で物事を考えたり判断したりすることを放棄した国民。

魚の群れの中で生きるように、同じ方向を向いて泳ぐことが安全だと刷り込まれている国民。

 

外人はよく日本を侍の国だと表現します。

しかし、僕は百姓の国だと思っています。

1999年から10年間ほど、僕は人々の意識の覚醒を促すために光の知識を伝えるための活動をしていたのですが、当時はそのことを痛感させられました。

勿論、百姓という表現は、侍に対しての言葉であり、農家のみなさんを蔑む意図はありません。

農家を営まれていても意識的な方はいらっしゃいます。逆に侍は現在には職業としては存在しません。

いわゆる百姓根性と言われるような身分制度が生み出したある種の心理状態を表現しているだけなのでご理解ください。

 

つまり彼らは、つまるところ食べられるかどうかであり、収穫が豊かかどうかが生活の基準なのです。

年貢制度や、身分制度などの正当性などは意識の外なのだと思います。

これは現代人にも当てはまります。政治や社会制度、或いは人権にいたってもそれが、あるべき形であるのかというところまで意識は向きません。何らかの被害者や当事者になって初めておかしいだろう。と不満を述べるのです。

私達は、どんな国であっても経済が潤って、毎日食べられ、少しの娯楽を味わえれば一揆を起こすことはないのです。

人生は、何のためにあるのか?人は何ために生きるのか?そんな問いかけをする暇もなく、自分の生活を潤すために奴隷のように働きます。

寿命を削って限られた人生の時間を労働に費やしても、肥えるのは、経営者か株主で、わずかなおこぼれをいただくために、会社のためと日夜汗を流しています。

 

この世界に疑問を持つ国民がどれだけいるでしょうか?

これがマトリックス世界だとどれだけの人が気付くでしょうか?

 

為政者が不正を働いても追及することを途中で放棄し、日常に埋没していきます。

一時の怒りは、酒とともに、忘却されます。

中には義憤を覚える人がいても同調する人は少数です。

 

どうしてこうなったのか・・・

僕は昔考えたことがありました。一つの結論は、秀吉による十人組にあるのではないか・・・ということです。

つまり、連帯責任を負わせることによって自分勝手ができなくなり、それをお互いが監視するシステムです。

これを破ると村八分になるわけです。

これだけが要因ではないでしょうが、人の目を気にして生活する習慣にはなったのではないでしょうか?

未だに、人と違う事をする人は、厄介もので村八分のように嫌われますもんね。

 

もしかするとそれが学校教育にも引き継がれているように思います。

私達は、当たり前のように制服を身につけますが、どうして同じ格好をする必要があるのでしょうか?

随分前の話、2016年にNHKで放映された海外のドキュメンタリー番組がありました。

「独裁者の部屋」というタイトルです。

 

 

当時にここ七色堂でも取り上げたことがありました。

 

 

ブログより一部引用します。

 

今年の春に、「独裁者の部屋 」という海外のドキュメンタリーが放映されていました。
「2015年「日本賞」青少年向けカテゴリー最優秀賞。スウェーデンの8人の若者が架空の独裁体制の下で8日間を過ごすことになった。多額の賞金がかかっているが、どうすれば獲得できるかは誰も知らない。彼らは独裁者からの理不尽な指示に従う。初日、待ち受けていたのは外出禁止令などの厳しい規則。さらに「全員で持ち込む品を5つだけ選べ」という指令。決めあぐねる男性たちを尻目に、女性たちは化粧品を選ぶと主張するが…。」


独裁者の命令として全員が同じ服を着せられました。
いわゆる制服です。
これに対し、若者たちは、皆が反感を持ちました。
日本人は、子供の頃から制服になれ、同じ服を着ることに慣れています。

彼らは、ファッションは自分のアイデンティーを表現する手段だと考え、それを奪われた事に反感を覚えたのでした。
日本人にこういった考えは珍しいように思います。
中学時代、スカートの長さや学ランの長さまでが規制されていましたからね。

つまり日本の学生は、子供の頃から、個人の自由を奪われ飼いならされてきたのだと思います。
そして、民主主義を勝ち取った西洋人と、民主主義を押し付けられた日本人では、民主主義への理解が違っているのだと思います。」

 

引用終わり

 

 

西洋人にとって制服を着せられるということは凄く抵抗があることなのです。

アイデンティーという言葉すら日本人には疎遠のような気がしますが、彼らには重要な要素なのです。

これとは関係ないですが、僕は幼稚園に入園する時に、スモッグを着せられることが嫌で泣いて抵抗した思い出があります。

あんな恰好の悪い服を着せられるって耐えられなかったのです。

服が汚れるからって、もう幼稚園児なんだから、汚しませんよ。

それに服を汚して遊ぶくらいの何が問題なのでしょうか?

サッカーやラグビーをやれば大人でも泥だらけだし、そのためのユニフォームというなら、様々なデザインが存在します。

 

同じ服を着て、同じ思考を持ち、同じ思想を植え付けるのが学校です。

これは、工場で製品を作るが如しです。

だから、規格に合わない学生を不良と呼ぶわけです。NG品ですね。

だけど、学校の規格に合わなくとも立派に社会に適合して社会人として生活しているわけです。

なぜ、未来の可能性を否定してまで不良と呼ぶのでしょうか?

 

僕が考えるのは、支配者が管理しやすいからだと思います。

明治に入って国民を管理するために、神社組織を乗っ取り、氏子制度による戸籍を管理しました。

その頂点に伊勢神宮を置き、天照大御神の子孫である天皇家を位置づけたのです。

未だに、天皇陛下第一の国民も珍しくないですよね。

彼らも政治利用されているに過ぎないと僕は思っています。

 

様々な制度は、国民を管理しやすくするために制定されていると考えられます。

マイナンバー制度もそうですよね。

一元管理して、データーを集約することにより管理できるわけです。

さらにカードだけじゃなくて、チップを埋め込んでスキャンすることにより、個人がどんな記録を有しているか直ぐに判別できるようにしたいと思っていると思います。

いわゆるSFで描かれるデストピア社会です。

 

しかしながら、自分で考える能力と判断思考を奪われた国民には、NOを突き付ける余地もなく、人が受け入れたなら自分もOKだと進んで鎖に繋がれることを選ぶのでしょう。

ワクチンが良い例です。

我先にと、引かなくても良いロシアンルーレットを進んで引いているように僕には見えます。

 

ニュースで報道しているから、国が薦めているから、それだけの理由で疑いもなく受け入れる国民性。

これが現代日本人の大衆心理です。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」

でも、みんなで渡っても危険な物は危険であり、命を落とす結果になります。

「長い物には、巻かれよ。」

長いものに縛られて身動き取れなくなっても知りませんよ。誰も責任をとってくれません。

 

この傾向は、ライトワーカーにも見られます。

かつて、スピリチュアルは、ステレオタイプだと言った人がおりまして、僕もこれに同意した覚えがあります。

誰かが言うと、みんな同じ言葉を使って伝えてしまします。

そこに理解や検証といった自分で考える余地があまり感じられなかったのです。

その言葉を使うことによって、自分は人よりわかった人だといわんばかりの人も見受けました。

スピリチュアルの情報も価値に関わらず一つの情報です。

僕は、COBRAのもたらす情報を重要視していますが、これもあくまで一つの情報です。

それを横流しにすることは、僕の理念に反しています。

時々、僕は、自分の言葉で発信していると言われるのですが、無意識に横流しするのは好きではないのです。

かと言って、拡散している人を批判しているわけではありません。

拡散するだけで、地球解放に貢献していることは良く分かっています。

ただ、僕の姿勢としては、したくないというだけです。

といっても、Twitterでは、そのままリツイートすることが多いです。

実は、この場合は、僕の忘備録として記録している場合が殆どなんです。

または、文字数の関係で中途半端になるよりは、そのまま自分の意見を加えずに拡散しているだけです。

 

ライトワーカーにはいくつかのタイプがあると思います。

人々を純粋にリードするタイプもいます。彼らはある意味排他的だと見られるかもしれませんが、純粋なエネルギーを保持する必要があります。

また、知識を広げるタイプもいます。あらゆる情報を提供するタイプもいます。

ヒーラーとして、疲れたライトワーカーを癒すことに特化した優しいタイプもいます。

また、それとは反対に戦士のように戦うタイプもいます。

ここに優劣は存在しないと僕は思っています。

それぞれが、それぞれを理解し尊重できてこそ光の使者なんだと思っています。

アセンデッドマスターにも様々なタイプが存在するでしょ?

 

僕のライトワークの根幹は、人々の意識の成長に寄与するということです。

これは、今も巡禮しているときも変わっていないつもりです。

なぜなら、新しい時代を迎えるには、次の地球の黄金時代を迎えるには、その意識の変革が必要だからです。

多くの人は、どこかの地球環境と似た惑星で、今の世界を継続させることでしょう。

でも、僕はニューアトランティスで新しい時代を経験したいと望んでいます。

その時に、古い意識のままでは、一緒に移行できないからです。

 

新しい意識とは、銀河社会に適した意識です。

古い意識は、マトリックス世界に生きる意識です。

この意識は、新しい時代を受け入れるためだけでなく、個人の人生を搾取することを無意識に赦している意識状態です。

だから、私達人類が、銀河の一員として、本来あるべき姿に戻ってほしいという願いがあります。

地球由来の魂の持ち主には、理解し難い課題かもしれませんが、銀河の人類愛を持ってそう願っています。

 

話がそれましたが、人がそうだからという理由で安易に選択する弊害を理解して欲しいと思います。

与党に投票していれば安心なんていう理由は成立しません。

人の見る目が気になるからと自由を制限する必要は微塵もありません。

もっと自分に自信を持つべきです。

もっと自分の表現を解放するべきです。

それぞれが違った個人なわけで、それをお互いが尊重できる社会であるべきだと思います。

銀河社会では、想像もしなかった異形の知的生命体に合うかもしれません。

その時に、自分と違うからといって差別することは愚かな行為です。

もしかすると自分の方が異形なのかもしれないのですから。

宇宙の生命体が何を基準に行動すべきかを問うなら、それは愛を基準にしているかどうかだと思います。

これが、創造神の第一の法則だからです。

創造神には、善も悪も存在しません。そのあり方を善と呼ぶだけです。そして、その基準が愛と私達が呼ぶ繋がりなんだと思います。

 

話を最初に戻しますと、マスクは、一つの私達の現在の在り方の象徴です。

だから、僕は外でマスクをするのはとても恥ずかしくてできないのです。

人と違うことを選んでする必要もありません。

ただ、自然に自分が選んだ事を表現できれば良いのだと思います。

その障害に何があるのかを認識して欲しいと思います。

現代は、沢山の気付きのサインが満ちています。

今までは隠れて気付かなかった事が、露骨に見えるようになってきています。

それは、目覚めの時が来たという事なんだと思います。