ジブン探検中。 -3ページ目

ジブン探検中。

どう感じたか、どう思ったか、
書いて忘れていくブログ。

猫がいない生活が始まってしばし経つ。

大丈夫だ、寂しい、大丈夫だ、寂しい、を繰り返す日々。

いや、寂しくなろうとしている節もあるから、多分大丈夫。

それどころか父親の時に感じた「重石が外れる」ような感覚もあったりする。

重石、なんていうとネガティブに感じられるかもしれないけど。

重石をするのは、動かないように固定するためだったり、みっちりきっちり密着できるようにするためだったり。

自由であることが正義、正しい、喜ばしい、そんな風潮が蔓延っていれば、重石は確実にネガティブだろう。

自由を阻害する要因っぽく感じるからだ。

 

父親が召された時、ああ、私はもうこの人が喜びそうな振る舞いをしなくていいんだ、と解放された気分になった。

なんか、元気になってますよね、と、もそっと病んでいるような雰囲気を纏っていた私にそう告げる人もいた。

どれだけ、いい娘でいようとしていたんだろうか、と愕然としたものだ。

 

猫が一匹、一匹と旅立っていくにつれ、身軽になっていくような気もした。

確実に何か変化しているけど、それをどう言葉にしていいのかわからなく、身軽になっている、と思っていた。

最後の一匹が旅立った今、言えるのは、どんだけ猫にエネルギー注ぎ込んでたんだ、私、ってことだ。

 

猫の可愛らしさに絆されて、せっせせっせと世話をした。

そんなエネルギーどこにあったんだろう。

若かったから、とか思わなくもないが、今も居たらなんら疑問も抱かずに世話をしていただろうし、父親が生きていたら相変わらず、どこかがっかりさせないように気を使っていたように思う。

どこにあったかわからないエネルギーが今は自分に還元されている感じがする。

元気なのだ。

気持ちは別として肉体は結構元気なのだ。

動き出しは相変わらずもっさりしているが、動き出したらあれこれ動けてしまう程度に元気なのだ。

どんだけ、自分以外の何かにエネルギー注いでたんだろうか、と思うくらいには元気なのだ。

 

 

それなりの負荷がかかっていたはずなのに、その最中は全くそれに気が付かなかった。

負荷がかかった状態で動いて、生きていたから今も動き出しもっさりながらもテキパキとことをこなせているとはいえ、無意識、無自覚の恐ろしさよ・・・

 

結局、やればできる、というか、その状況になればそれなりにできてしまう、ということだ。

頑張る気がなくても、がんばれてしまう。

渦中に入ったら、なんやかんやでできてしまう。

それがいいことなのか、どうなのか、はわからない。

立場が人を作る、なんて言うけども、これもまた言い得ている。

似たようなことだ。

そのポジションに着いたら、そうなってしまう、倣ってしまう、そんな目に見えない力場があるように思える、し、実際にそうだ。

環境の影響云々も同じことだろう。

立場や環境で人はどうにでも転べるんだろうな、いや、だろう、じゃなくて、そうなんだ。


 

やればそれなりになんとかなってしまう、って思うと、そりゃあ自己責任だのなんだの言いたくなるだろう。

集団に所属する群れの意思(同調圧力だろな、これは)によって翻弄される方がまだまだ自然なのに、自己責任だ、って水戸黄門の印籠の如く言いたくなるんだろう。

 

 

当人がそれらをやりたいかどうかは別として、という前提を無視していうんだろう。

個人の意思も尊重されつつある世の中になりつつあるし、だからこそ、自己決定、自己裁量なんて言葉も自己責任同様目にすることが増えている。

 

アンバランスな過渡期、ってところかな。

よくわからないけど、何かしらの流れができていて、どうすんのよ?と突きつけられている気分にもなる。

 

 

などと、生理痛各位の暴動に耐えながら、これからどうするんだろ、どうなるんだろう、なんて考えてもいい感じに収まるわけもなく。

今日はもう、何もしたくないし、する必要もないってことにして誰かがいようといまいと関係なくやってる現実逃避に走る。

 

だるいし、痛いし、眠いし。

逃避したってこいつらはストーカーのように私にへばりついている。