青空文庫で読める時代の本を読んでいることが多い。
すると、今現代に生きている人の文章の読みやすさと言ったら、もう驚くほど。
スルスル読めるので、内容よりも読める、読めるぞーってことに溺れそうになる。
ネットの記事に至っては読む感覚を起こさなくても読めてしまうことが多い。
そんな中で、たまに目にするのが、読みにくい、っていうコメントだ。
大抵長文(・・・って言っても1万字以下だけど)の記事についている。
意味がわからない。
読みにくい、読みやすいは個人差がある。
にしても、だ。
単純に文章量が多くて読んでて飽きました、ってことを読みにくい、と評している気がしてならない。
結論めいたものはこれだろう、と推察(するまでもないはずだが)するスタイルの文章に馴染みがない、ってことを、理解できません、って評するところを・・・
なんか、なんだろう、どうしてこうなった!
ここにも格差が出ているの?
自発的に刺激し続けて養われたであろう読解力以前の話で読み取れそうなものを、読みにくい、って言ってしまえるの?
興味があるテーマなのに、読みにくい、って本当にあなた、興味があるの?
興味があったら、理解したいと思うだろうし、読み込もう、理解するためにあれこれしようとしないの?
意味がわからない。
何でもかんでも調理、処理されて、御膳立てされた状態であることが当たり前だ、と思う人が増えているのかもしれない。
結論だけ知りたいのかもしれない。
だとしても、言い方とかあるよね、実際のところ、読みにくいのか、理解できなかったのか、難しく感じたのか、その主語はコメントを残した人であるわけで。
ってことは、私は・・・読解力がありません!!!って言っていることと同じだよ、って。
己の読解力のなさという恥を書き手に投げつけて正当化する人間が視認識できる社会になっただけ、で昔からいっぱいいたのであろうけども、なんだかなー。
読解力のなさ、興味のある物に対して簡単に調べられる環境があるにもかかわらず、手抜きする残念さ、そこに恥を感じないのかもしれない。
わからない。
こういう感じの人たちはきっと昔からいたんだろう。
けど、その存在が無意識に見える現状、その振る舞いをみた人たちが、”これでいいんだ”とか思って連鎖してしまったら、と思うと怖い。
どんどん伝えたい側に負荷がかかる。
伝えたいことがある側にスキルの有無が求められる。
の、では、ないか、な、と。
そしてまた、溝ができる、んだろうか。
うーん。
こんなことを書いて、私は一体どんな状態であることを思い描いているんだろうか。
何かしらの絵があって、きっとこのことが気がかりになってるんだろう。
そこがまた見えていないから、こんなことを書いているんだろうな。
自分でもよくわかっていないけど、なんか、なんか、気がかりよ。