先日スマホを買い換えた。
2年縛りが終わったこともあり、ゲームにしかほぼ使われていない我がスマホを、ゲームに最適化しちまおうぜ、とiPhoneに変えた。
心の中に、私ごときがiPhone持っていいのかな、という気持ちがあった。
というのも、アップルの製品はクリエイターに適したものだ、というイメージがあったからだ。
やたら洗練されていてシャレオツなイメージだ。
私のセルフイメージにそんなものは一ミクロンもねぇ。
今これを書いているラップトップを夫が用意してくれた時も、私ごときがこれを、と思ったが。
そういった自意識、思い込みみたいなものとの格闘もなかなか苦痛だったがそれ以上に苦痛だったものがある。
壊さないための周辺アクセサリ選びである。
Androidを使っていた時とは比べ物にならないくらいにiPhoneは選択肢が多い。
すると、どれがいいのか選ばねばならなくなる。
これが苦痛すぎた。
わーい、どれにしようかなー、わーいわーい。
そんな気分で選べない自分にがっかりもするし、異常性を感じたりもする。
色々な商品を見ては、なんども私の一番の目的は何か、を確認する。
割れないこと、壊れないこと、手触り、可愛らしさ、色、素材、出品者、商品レビュー。
全てを網羅するものを見つけるのには、多大な労力がかかる。
時々見かける、頭大丈夫かな、と思うようなレビューを見ては脱力感に苛まれ、ああ、日本語ミスしたままの説明文に、校正するくらいの誠実さは欲しいな、と思ったり、忙しい。
(きちんと説明を読まない人間の早とちり激おこレビュー、某国の人がグーグル翻訳か何かで日本語にしたであろうレビュー、人間の浅ましさや愚かさが隠れない時代になったのだな、と実感する。)
途中、私はスマホを投げつけて壊したくなった。
スマホ、あんたがいなくなればこの苦痛から逃れられる。
一方でその様子を冷静に眺めている自分も存在しており、それくらい私にとって何かを選ぶことが苦痛なのだな、と認識した。
ケースがないと恐る恐る使うことになってしまうので、お試しだ、と言い聞かせて購入した。
そして、どうしてそんなに選択、決断が苦痛なのか、考えてみた。
真っ先に上がったのが、失敗は許されないという強迫観念だ。
たかだか数千円。
失敗しても取り返しがつかないわけではない。
自分が稼いだわけではないお金で買うから余計にそう思うのだろう。
しかし、それ以上に何か、この裏側にある気がしてならない。
こうして文章にしている今も、うんざりするような向き合いたくない気持ちが溢れてそこら中を気だるさで支配している。
そして、あ、もうダメだ、と横になった。
しばらく時間が経って、わかったのは、かなり自分をごまかしていたということだ。
色々な要求があって、どれを優先するのか、という過程を踏んだ。
その時、最優先させたのが、割れないことだった。
とても合理的な理由だった。
しかし、私の本心、本音、心は割れないことを最優先には考えていなかったのだ。
見て、触って、ときめくことが最優先だったのだ。
それに気がつかずに、何日も似たり寄ったりのものを選別するための条件を複数示して探し続けていた。
選択することも、決断することも経験値が低すぎて苦手要素となっている私には苦行でしかない。
知らないうちに溜まっていくフラストレーションから逃げたくなるし、疲れる。
大元の原因であるiPhoneを投げつけて解決したくなるのもうなづける。
これに限らず、時々ウワーッと投げ出したくなるような衝動に襲われることがままある。
ウワーッと投げ出したくなる気持ちにセリフをつけるなら「もう、いや」だ。
もう、ということは継続している何かがある、ということだ。
ずっとその状態が続けいていたということだ。
結局、本音、本心よりも合理性を優先したから、空気を読まねばならない、常識みたいなものを優先し続けてきた結果なのだろう。
その習性がごくプライベートな出来事である、スマホケースにまで適用されてしまっていた。
(それだけじゃなく、スマホそのものの持っている意味合い、役割が多岐にわたるため、何を優先させるか、そこもまた考えなくてはならないからストレスがたまる。どう思われようが、どう思おうが、という境地に私が至っていない証拠でもある。)
これに気がついた自分を褒めたいと思う。
成長したなぁ、と思うからだ。
自分の本音通りにいつだって行動できればいい、選択できればいいわけでもない。
ただ、無視したり、放置していいわけではない。
私の心は、夏模様だ、と言える程度には、関心を持っていないから、こうなるのだ。
私の心に対して、私の対応はネグレクト、放置状態だったから、選択が苦痛になり、決断が苦痛になったりする。
失敗に対する恐怖ももちろんあるが、それ以前に自分の本音がわからなくなって、無視しすぎて挑戦できなくなっている状況もあるのではないだろうか。
社会が悪い部分ももちろんあるが、個人、家庭レベルで抑圧していることがないか考えてあげることが自分を大切にしようぜ論調の根っこにある気がする。
自分の身の回りの世話ができなくなる状態をセルフネグレクトという。
わかりにくいかもしれないが、自分の本心を無視し続けることもセルフネグレクトなのだな、と私は思う。
身の回りの世話できなくなるくらいに追い詰められたり体壊したりしちゃうのは気持ちの方のネグレクトが根本の原因としてあるからじゃないのかね。
スマホケースを選ぶ行為だけで、これだけ自分の内面が表に出てくるのだから、社会生活したら、私、疲弊しきってしまうのも当たり前だよな。