他人の人生にタダ乗りすんな。 | ジブン探検中。

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どう感じたか、どう思ったか、
書いて忘れていくブログ。

セブンイレブンのおこわ、んまい!!!ヒィーうんまーい。
ぷちぷちするお米がお口の中で楽しい。
舞茸のしゃきしゃきもたまらない。
ほのかに甘みが広がって、ぷちぷちしゃきしゃき。
わし、これだけで、1時間以上思い出してにやけられるくらいに好きだ。


今朝無意識にしっかりしなくてはスイッチを入れていたことに気が付いたのだが、もう一つ、ちょっと衝撃を受けたことがある。


私、一人暮らしなのに、存在しない誰かのことをずっと考えて行動していた


っぽい!!!!!
なにそれ、ホラーなんですけど。
見えない何かが見えてた?とか?
スピリチュアルこじらせてなんかどうかした?
そんなレベルで衝撃的だった。


私は絶賛一人暮らしだ、かれこれ数年以上家には私と2〜3匹の猫しかいない!!
実家とはほぼ連絡取らないし、義実家も私に触れることはほぼない。
だから私は私の好きなように暮らしているつもりだったのに。
凝視してみたら、存在しない誰かを優先して私はずっと暮らしていた、らしい。


と気づいた瞬間の脱力感。
ものすごく身体中が楽になった感じ。
あ、これ、頭おかしい人の妄言じゃなくて、事実だ、と認めざるを得ない。


あああ、私がネットニュース徘徊していたのは、自分の指針となるものを探しまくっていたからか。
無意識にしていたのだ。
母親の言う通りに動かないとヒステリックになることで萎縮し、うんざりしていたのに、ネットの中にヒステリックな母親の代わりを探し続けていたのだ、うん、無意識に。
そうしないとどうしていいのかわからなくなるから。


まさか、私は母親探しをしているなんて微塵も思っていない、気づいていない。
私は親との関係を見直して、ひと段落したと思っていた。
そしてやっと彼らから解放されたぞ、自由だぞ、と思っていた。
が、よくよく考えてみたら親の顔色伺いながら生きていくのが刷り込まれているのだ。
あっさり次の方法を手に入れられているわけがない。
知るわけがないのだ。
こなれた方法を、最適化されている方法を無意識がご親切にオートマティックに選んでいてくれたのだ。
こんな風に生きていきたい、があってかーらーのー、親との確執なんとかしようぜ、だったらこんなことにはならなかったのか。
楽になりたかったから、手をつけた課題をクリアして満足して、その先のことを一切考えていなかった。
我ながらオーマイガー。

・・・無意識、こわぁーい。


こうしたネット徘徊も、私が善人もしくは優しい人、意識高い系()だから相手のことを考えすぎているのかと思っていた。
自分の生活に刺激がないから、それを求めているのかと思っていた。
が、相手の人生にタダ乗りしようとしていただけだった。
ひどい。
思い違いも甚だしい。
しかもいい人になろうと必死だったっていう。
ただのクズじゃねぇか。
新たな依存先を探しているだけじゃないか。


うわぁ、ドンマイすぎる。
善人どころか、ただのクズ。
はぁ。


人の課題は人の課題。
自分が空っぽでなにもないからと言って、いい人ヅラしてタダ乗りとは何をしているのだろう。
私は私の人生を生きられないと白旗を振りたい気持ちが往々にしてあるが、そうは問屋が卸してくれない。
することないなら家事でもしてろ、という話だ。


すでに慣れ親しみすぎてしまった生きグセ。
今更赤子に戻れるわけでもなし、それなりに生きてしまった。
年齢というものも記号だなんだと言われても人並みに気になる。
アラフォーになってどう順序立って生きていけばいいのかわからないだの、知らないだの言っているのも情けないやら、恥ずかしいやら。
さらに生きグセがどうであれ、習得できたであろう私はこれができます、と胸を張って言えるようなスキルも積み上げたものも何もないなどと悲壮感漂わせる以前の問題だ。
そして、これが現実だ。
気づかない方が幸せだったかもしれない、し、今気づいてまだマシなのかもしれない。


ぶっちゃけ現時点の率直な心境はこんなの刺激的すぎて、気づきたくなかったよ、ママン、だ。

(綺麗に言えば、何かきっかけが欲しくて徘徊していた、何か役に立てることはないだろうか、と模索していた、とも言えるが、やっていることのエゲツなさが見えてこないので却下だ。)




それにしても、なにこの衝撃。
そして、脱力。
気づいた途端に楽になってる気がする。(気づきたくなかったけど、楽なことには変わりない。)
散々眠い眠いと言っていたのも、眠気くらいしか自分を優先しなかったから苦肉の策だったのか!!!?
うわん。


何かことを起こそうとするたびに、それ何か意味あるの?という自問自答が始まる。
結局なにもせず、というのを繰り返していたら、無気力になっていった。
(言うまでもなく、親の影響だ。徹底的に合理的に物事を進める上では役にたつ癖だけど、日常生活にここまでの合理性を求めると死にたくなるくらいに退屈になる。みすず学苑のCMくらい意味不明な方が楽しいものだ。)

ここ数日、寝ているのに眠いという感覚に陥っていたが、その時ふと思ったことがある。


私が楽しいと思うことは意味のないことなのか。
私が喜ぶことは意味のないことなのか。


それに対して、いや、意味あるだろ、それはそれで、と着地した。
少し、いや、とても気が楽になった。
結局自分の喜びや楽しみに対しても表層的にしか受け入れおらず、腹に落ちていたわけではなかったということだ。
たぶん、子供の私が一番求めていたことなのではないか、と思う。
気が楽になって、ぐっすり眠って、今日、この騒ぎだ。
玉ねぎの皮のように一枚一枚皮を剥がしていったらこうなった。
ちゃんと段階を踏んで、こうなっている。
それは理解している。
しているが、いろんなコンテンツがいろんな角度で皮を剥き始めて、結果的にズルムケになっているのを手放しに喜べるほど、私は若くない。
年齢を言い訳にするわけではないが、時間が経過すればするほど情けなさは比例するなぁ、と思う。


三大欲求に不具合を起こしている場合、自分の体から、精神からの本気のSOSなのだ。
やたら睡眠に執着していたのは、私の体と精神がもうむりー、と音をあげていたからだ。
そして、SOSを発信してくれているだけ、ありがたいのだ。
病気になる前にそうしてくれることが、本当にありがたいのだ。


今は、若干の葛藤と、混乱と、脱力感と、いろんなものに襲われている。
落ち着いてしまったら、きっとこんなことを文章化することはしないだろう。
だから、今、混乱しつつも、わけわかんねーだろうなぁ、伝わらないだろうなぁと思いながらも書いている。