今回は(過去記事1)で触れた虐め問題の補足のようなもの.

 

1つ記事を書くと,あれも言っておくべきだった,これも,とか思いつくんですよね.

 

例の安芸高田市の保育園がレッドゾーンにある関係のくだり.

もうそこがレッドゾーンにあることは公表されているのだから,

そこに自分の子供を預ける人はある程度は覚悟を持つべきだと思うんだよね.

まあ,それを自治体の役人が言ったら,「お前が言うな」ということになるし,

赤の他人がそれを言ったら,「家庭事情まで詳しく知らないやつが口を出すな」

ということになる.

 それを知っていたうえであえて利用する親には,他人がとやかくいう必要はない.

それを評価できるのはその家の子供だけだ.夫婦と子供間の問題である.

 知らないというのは,その親の罪でもあるし,最終的にはその子供(と親)が結果責任という形でとるしかない.

事故があったときに自治体がどの程度の賠償金を払うかは不明だ.

 

 世の中ってそんなものだと思うんですよね.

 

 学校のいじめ問題にしてみれば,私が不思議に思うのは,世の新聞記事などに出てくる典型的な親だと,

「自分の子供を学校へ行かせる」ということに関しては疑問の余地を挟まない.

入学する前に学校をよくよく調べはしない.公立小学校なら特に.

 で,入学してから自分の子供が被害者になると,

担任教諭,管理職,校長,教育委員会,加害者ら

に激しく苦情を言う.

 しかし彼らはせいぜい「音波を発する」ぐらいしか術がない.

力が無いのだ.気休めの言葉を言うだけだ.表面上,「被害者らに寄り添った言葉・謝罪」を述べるだけだ.

あるいはそれすらない場合も多い.

 そして子と保護者らはたいへん傷つき,マスコミも同情して記事にする.

 裁判で勝ったところで,民事なら所詮は金の話だ.刑事でもあちらにダメージを負わせるだけでこちらにとっては気休めぐらいのメリットしかない.

 

 もうちょっとドライに考えてみようよ.

 

 本当に被害を被るのは自分の子供だ.

 

 虐めって,歴史的に見ても世界的に見ても学校では広域的長期的に起こっていることだ.これはシステムの問題だ.

 「虐めはありうる」ということは認識したうえで「学校を利用」しようよ.

 

 学校に通わせる

・メリット

・デメリット

を冷静に分析する.入ってみなければ分からないことも多々ある.

今年はメリットのほうが大きかったけれど,来年は逆という事も充分ありうる.

 

 メリットとデメリットを常に考えながら,リスクと効果を考えたうえで利用方法を考えればよいことだ.

 

 (過去記事1)の本でもあったが,殺人犯も虐め加害者も担任教諭も,みんな自分の事で精いっぱいだ.

その場で謝罪したとしても,そんなの言葉の上でのことだ.「その場を乗り切りたい」という方便にすぎない.

 

 そんなもので満足するのか?

 

 まるで(過去記事2)であげたように,自分らの市が財政破綻でなくなって,市長や役人らに「ごめんなさい」と涙ながらに謝罪してもらって,それで何かが変わるか?

 

 みんな「演技」に騙されすぎ.

 

 虐めの殆どのケースでは,謝罪演技が表向きになされるかなされないかの違いだけで,反省などはないと思った方が良いだろう.

現実は,「殺人で刑務所に入ってさえ反省しない」のだ.虐めくらいで反省はしない.

 それは力対力の構造上の問題に過ぎない.「人がみな平等に幸福を追求する権利がある」というのはここ300年くらいの歴史的には短い考えだ.フランス革命期以降か.小学生はまだそんな世界にはいない.

 胎児は母の子宮の中で,魚・両生類・哺乳離と進化の過程をなぞってヒトの形になるという.

 人間の社会も同じなのだ.

 子供は生まれ落ちた社会で,どのような社会を築くか,環境とトライアンドエラーを繰り返して,自分らの世代の社会を形成していく.大人世代の支配者層は自分らのシステムを継承するように若い世代に強制・洗脳していく.その過程で新世代は旧世代のコピーになることなくバージョンアップして社会のありかたが進化していく.

 メキシコなどのように犯罪組織が警察より強くなる国もあるし,日本のように治安が比較的良い国もある.どんな社会システムが良いかは,それぞれの人々の力関係のバランスで決まってくる.現在の社会システムが壊れた方が得をするグループと保持したほうが得をするグループとのせめぎあいだ.

 

 

 だから,親はドライにリアルにこの世を見ることで,自分の子供を守ることができる.

「他の子供たちは自分の子供の幸福追求権を尊重するステージにはいない」

ということを理解すべきだる.大人たちも表向きはそのステージにはいるが,損得次第では崩れることは往々にしてある.

とくに社会的地位が低い大人たちにとっては失うものが少ないので崩れることはしばしばだ.

(フワちゃんは社会的地位が高いというか人気商売だったので,損が大きかった.)

 

 虐めが起こってから,学校や行政を非難することは,ある程度は社会を良い方向に向かわせることに貢献する可能性はあるだろう.でも自分の子供を守ることにはならない.

 

 人間は「惰性」というものに負けやすい.ちょっとでも通学はデメリットが大きいと思ったら辞めさせるという選択肢が良いと思う.まあこれは複雑な事情が絡むだろう.

・地方で持ち家で地元に根差した自営業をしている家庭の勉強がかなり出来ない子供(ないし障害児)

と,

・都会で賃貸住まいのサラリーマン家庭の勉強が出来る子供

 

とでは事情が異なるだろう.前者では考える要素が多いかもしれない.後者なら,小学校時代の同級生の付き合いは,小学校卒業したら縁が切れる.

 

 あるいは虐め加害者が上の二つのどっちのタイプかも考慮する必要が出てくるかもしれない.

 

 自分らの置かれた状況を良く見るべきだ.時代も変わっていく.

 私の考えでは,少子化はまだ続き,学校歴競争も就活も若者にとっては比較的楽になっていくだろう.

社会も大きく変わっていくだろう.

 

 不確定な未来のために現在を意図的に犠牲にする必要は薄いのではないかと思う.

 当人の意志ならともかく,親が「子供を正しく導く」必要はないと思う.親がやるべきは「最悪の事態を避ける」よう助言するだけだろうと思う.

 

 虐めは現在のシステム上,一定以上の確率で起こる.それが分かったうえで行動すべき.被害が起こってから自分の心情に振り回されてはいけない.というか,親が気づかないうちに起こっている,そのことも視野に入れるべきだ.

 

 「自分らの市がなくなることを想定していない」老いた市議らの推し活に熱を入れて,市が破綻した時にその時点での市長の謝罪(の言葉)で納得してしまう愚かな市民らと,

 「自分らの学校で虐めが起こっていることを想定していない」学校管理職らの言葉を信用して,虐め被害が起こってから彼らの表向きの謝罪で納得してしまう被害者の保護者

は私には重なってしまう.

 

 もうみんな,学校なんて行かなくてよいんじゃない?

義務教育を学校教育に限るという

学校教育法第16・17条(1947年)

が古いんだよ.

 

 

 

(過去記事1)

 

(過去記事2)

 

(過去記事3)