いつも読まさせていただいているブログの記事をリブログさせていただきます。

そこで、(私も普段から地頭論をリブログさせてもらっている著名ブロガー)うーたんパパさんがコメントでこう質問しています。


もし息子さんが、公立中学の中でも落ちこぼれの成績だったら、今と同じように大らかな気持ちで見守っていける自信はおありでしょうか?



 うーたんパパさんの問題点に私もとても興味をもっているので、私は聞かれたわけではないけど、私の考えを描かせてください。でしゃばりですみません。


 私が普段から考えていることなので。誰にというより自分に書いてます。偉そうに聞こえたら御免なさい。


このブログでも過去に触れたことはありますが。


 まず、「親が子を正しく導く」という考えは最近の考え方です。(過去記事1)の最後にも「子育ての大誤解」を引用して書いた通り、1950年以降になってから「親による子育てがその子の成人期以降の人生へ長期的影響を与える」という考えが普及したのだと。フロイト思想の普及に関連しているらしい。

 私は、意図的に悪い長期的影響を与えることはかなり高確度でできるだろうが、意図的に良い長期的影響を与えることはほとんどできない。出来たとしても単なる偶然だと思っています。

 私の気に入っているエピソードは、こうあります。ある一卵性双生児が別の里親に育てられて、音楽家の家庭に育てられた子は成人になっても楽譜すら読めず、音楽と関係ない家庭で育てられた子はピアニストになった。

 そんなものだと思います。

 

 子が複数いる親か兄弟のいる人ならわかると思いますが、一卵性双生児でなければ遺伝子はそれぞれ違います。地頭の良い子より地頭の悪い子にサポート手厚くして成績順を逆転させることなど絶対不可能であることは容易に想像できると思います。

 ある意味、学習障害は低レベルから高レベルまで全ての段階で存在します(過去記事4)。低レベルなものだけ書字障害と読んでいるだけです。IQ70以下を知的障害と呼びますが、なぜ70なのか根拠はありません。人口にして2%なのでその辺で区切っているだけのことです。行政支援能力と被支援者人口のバランスを2%にしているだけ。


 ここまでで言いたかったのは、親は子を「正しく導く」という考えに囚われないほうが良いということです。楽しく暮らせばよい。将来のために現在の幸福を犠牲にするという判断は子供自身がやらないと意味がないと思っています。


 というわけで親が意図的に学力をあげるなんて不可能だと思っています。そのような介入は悪影響の方が多いと思います。


 親が子に意図的に導いて成功した例外的成功例は(過去記事5)の慶大生にあります。学力自体を上げたわけではありませんが。


 本当に学問が重要だと思うなら、子供にやらせるんじゃなくて親自身が学問し続けているでしょう。人の一生は短いので、いくら学問をやっても終わりはないです。読むのは私1人ですが、論文や本を書く学者は世界中に沢山いますから。

 親自身が学問せずに金稼ぎに奔走していて子供にやらせようなんて説得力は無いです。


 さて、自分の子が成績が悪い時に、おおらかな気持ちで見守れるか?ですが、


 私は見守れます。


 どうしてか?冷静に考えれば分かります。

 足るを知る、これが大切で、親もこの考えを持つべきです。


 自分と自分の子は幸福に生きたい。幸福は人それぞれでもあるが、そもそもなんで幸福というものが存在するか。植物に快楽は無いだろう。鬱病になるオランウータンはいない(オランウータンは群れもツガイも成さない)。(一夫多妻制の)平安時代は男が泣き女は泣かなかった。感情は文化に依存する。群れの中で生きるための手段に過ぎない。手段であるはずの感情が目的になってしまうことが不幸を招く。

 そもそも快楽神経をはじめ、すべての器官は子孫繁栄という目的のための手段として進化の過程で発達したものだ。

 だから幸福は実は目的ではなくて、自分または近親の遺伝子の繁栄という目的のための手段である。


 とは言っても出生率2.07をはるかに超えた状態を長期続くことは不可能だ。人口が無限大になるからだ。

 長期的には出生率が2.07近辺をウロウロすることになるだろう。


 そう考えた時、人口維持を仮定すれば、

 自分の子は約2人、孫は4人、ひ孫は8人、玄孫は16人、来孫32人いることになるだろう。


来孫32人が全員、地頭偏差値60以上なんてありえない。来孫32人以上が偏差値60の人なんてほとんどいないだろう。そんな人はほとんどいないはずだ。

 ダルビッシュの来孫32人のうち男子16人全員が野球で身を立てるとも思えない。

 なんだったら、どんなに優秀な人でも、5世代前の祖父16人、祖母16人全員が優秀だったなんて人もいないだろう。


 来孫32人は全員が優秀ではないはずだ。それでも皆んなに真っ当な人生を歩んでほしい、32人のうち優秀だった半分が良い人生を送ってそうでない半分が飢え死にしてもらっては困る。みんな助け合って生きてほしい。通貨なんてものは、生活必需品が豊富に流通している平和な時代に贅沢品を取引するためのツールにすぎない。戦争にでもなれば通貨ではなく、配給制に変わる。


一世代30才差とすれば、来孫は5*30=150で我々と150歳差だ。

 明治天皇(1852.11.3-1912.7.30)とその来孫悠仁親王(2006.9.6-)の年の差は154才だ。

 今から150年後、32人の来孫はどこでどう暮らしているのだろうか、

 時代は大きく変わっているだろう。

 150年間も日本がGDP世界2-3位をキープして、世界の発展途上国から農産物や資源を安く大量に輸入して暮らすなどはまず無理だろう。

 2050年にはGDPでインド、インドネシア、ブラジル、メキシコなどに抜かれると言う。

 世界中の人々が現在の日本人レベルの生活をすることは資源的におそらく不可能だろう。


 それでも来孫32人はそれぞれ生きていかなければならない。来孫32人のうち何人かは子供を持たずに死ぬかもしれないがそれでも昆孫64人を持つことが期待される。人口維持を仮定すれば、平均としてその数字になる。


 カースト制度、身分制度は歴史的にみて強固ではない。試験力カーストはまだ生まれて高々150年だ。先進国の試験カースト上位について、過半数の国内人と発展途上国の人々を事実上の奴隷として富を吸い上げて生活しようなんて戦略が150年もつとは思えないし、来孫32人がその前提で昆孫64人をもてるとは思えない。玄孫32人はいろんな国に分かれて住んでいるだろう。一部はイスラム教徒になってるかもしれない(イスラム教徒が増えてるそうだ)。外国人とのハーフやクォーターやもっとかもしれない。異なる文化と法律の土地で生活してるだろう。


 必要なのは、試験カーストの上位につくことではなくて、そんな前提なくとも助け合いどんな状況でも生きていける力だろう。


 近い将来は労働の形態や意味も変わってくるのではないだろうか(過去記事3)。



 ある条件を満たすべく生きるより、どんな環境変化が起きても生きていく力だと思う。


 上では極端に来孫の話を出しましたが、親と子の時代の差でも大きく変わると思います。

 今から30年前1994年ではまだインターネットも携帯電話も普及してませんでした。(過去記事2)参照。


 あと上のブログでは、クリーム配合のさんすうができない東洋大生の話が出てきましたが、もう今や学生はスマホのChatGPTアプリで簡単に答えを出すと思う。


 文明は人が楽をするためにある。人を鍛えるというのはしなくて済むのが文明の進歩です。

 どんな能力が必要かはその時代の人が考える。



 


(過去記事1)



 

(過去記事2)


(過去記事3)



(過去記事4)



(過去記事5)