(過去記事1)の中で、

重度知的障害から中等度、軽度、境界知能、平均より下、平均より上、優秀、ギフテッド

はグラデーションであって、はっきりした境界は無いと書いた。


例えばウィスクラー式知能検査で測った数値で区分けするという方法もあるが、現在はそれだけで決めるべきではないという流れになってきている。もっともだ。


 知的障害者は特別な人たちであって、健常者とはっきり違うと思っている人が結構いると思うが違うと思う。

 まず一直線上に並べられるというのも幻想だ。知能にはいろんなバリエーションがあって、長所が欠点を補っていたりする。

目が見えない人ほど耳が良いとか。

逆も然り。

 小1で時計の読み方でつまづくこともある。

 小3のあまりある割り算は、支援級ではほとんど出来ない。小6迄に余りある割り算できるなら、中学卒業したら特別支援学校後頭部ではなく、高等特別支援学校の入試に受かるだろう。給与は多くの場合、生活保護に毛が生えたようなものだろうが。

 小4でおよその数、四捨五入をやる。普通級なら。これもつまづきやすい単元だ。これが分からないと平均も分からなくなる。

 小5では約数を習う。これが分からないと中1でやる素数も分かるわけない。


 中1で一次方程式

 中2で連立方程式

 中3で二次方程式

を習う

 高一で二次関数とグラフ

 高二で三角関数、指数関数、対数関数

 高三で極限、複素平面

を習う。


 時計の読み方が一生わからない人もいる。

 時計は読めるが余りある割り算が一生できない人もいる。

 あまりある割り算できるが、方程式が一生わからない人もいる。

 方程式は分かるが、極限や複素平面がわからない人もいる。


 努力すればできるという教師は生徒を追い込む。


 (過去記事2)でも書いたように、学習障害というのはどの段階でも存在し、たいてい原因は分からない。


 大学に入ってからの教科でも学習障害はあるし、

 そもそも絵画障害、音楽障害、サッカー障害など、もっと種類も程度もいろいろあるはずだ。困ってないから障害名がつかないだけだ。

 文系出身者はほとんどが高校までのいずれかの段階で数学障害だろうが、困っていない。電卓あれば筆算障害も困らないし、ワープロあれば書字障害も困らないのだ。メガネかけてる近視の人を視覚障害と呼ばないのと同じ事だ。


 知的障害者と健常者の間に恣意的にラインを敷き、健常者なら努力次第でどこまでも上り詰められるというのは大変な誤解である。

 知的障害者に対して、せめてこれくらいはできるように、と追い詰めるのと同じ事である。


 原因がわからないのに対処法は無い。


 あたかもあるかのようにしてビジネスにするのは詐欺である。

 教師や支援者のタチの悪いところは、結果が出なくても、頑張って支援した、というところに重きをおく事だ。


 そうやって文科省は省益を拡大してきたし教育業界はビジネスにしてきた。

 たしかにそれは150年前は識字率をいっきにあげ、成果を出した。

 しかしこれだけ情報があるれる現代では教育業界は意味を失った。



(過去記事1)


(過去記事2)